白井庄
しらいのしよう
印旛沼に注ぐ鹿島川の中・上流域や、その支流弥富川流域に展開した庄園。神崎町神宮寺蔵の貞治二年(一三六三)に書写された大般若経奥書にみえる庄内の地名として塩古(現八街市・佐倉市)のほか、岡田・用草・世田、内田・高柳(現佐倉市)がある。また弥富(現佐倉市)は塩古とともに庄内の中核的な郷で、「源平闘諍録」には交通の要衝として「白井ノ馬渡ノ橋」がみえる。以上から、庄域は弥富川に沿った現在の八街市勢田から鹿島川中流の佐倉市馬渡に及ぶ地域と考えられ、千葉市若葉区も庄域に含まれる可能性がある。また白井庄の加納として勝田があったことが知られ(建久年間「香取神宮遷宮用途注進状」香取文書)、現佐倉市上勝田・下勝田を中心とする一帯も庄域であった。
「吾妻鏡」文治二年(一一八六)三月一二日条に比叡山延暦寺領として下総国白井庄がみえ、年貢が未納となっていた。平安末期には成立し、その開発領主は両総平氏の一族で千葉常長もしくは常兼の子とされる白井次郎常親を祖とする白井氏(常長・常兼系白井氏)であった(神代本千葉系図)。白井氏は庄官職を保持したと考えられるが、年月日未詳の飯野八幡宮縁起注進状案(飯野八幡宮文書)によると、文治五年頃に好島庄(現福島県いわき市)の預所であった千葉常胤の代官として弥富四郎忠茂・白井右衛門尉忠光が派遣されており、白井氏は千葉宗家の被官化していた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 