白瀬村(読み)しろせむら

日本歴史地名大系 「白瀬村」の解説

白瀬村
しろせむら

[現在地名]両津市白瀬

南は北五十里きたいかり村、北は小松こまつ村。北西は後背地の金剛こんごう(九六二・二メートル)で、小野見おのみ村・北田野浦きたたのうら(現相川町)と境する。集落はほぼ中央を流れる白瀬川右岸に中組、左岸にしかま組、海岸段丘上の新田組がある。しかま組には製塩地を物語る「しかま」の地名がある。草分臼杵重右衛門は吉住よしずみ城主本間氏の家臣といわれ、元禄八年(一六九五)の白瀬村臼杵氏先祖并村中由来記(臼杵重右衛門家蔵)は永正年中(一五〇四―二一)豊前国臼杵うすき(現大分県臼杵市)から入国と伝える。元禄七年の検地帳(白瀬区有)では田一六町六反余・畑三町四反余で、名請人四八人。御林はなめり石と里みが尾に二ヵ所。享保五年(一七二〇)の田畑屋敷帳(中島孫左衛門家蔵)によると、北五十里村へ飛地をもつ者一四人が記される。


白瀬村
しろせむら

[現在地名]羽咋市白瀬町・上白瀬町かみしろせまち白石町しらいしまち

藪野うどの村の東、北流する飯山いのやま川扇状地の扇頂部に位置する。江戸時代加賀藩領と土方領(のち幕府領)の入会で、土方領を白石村とも称したが、明治五年(一八七二)旧加賀藩領が白瀬村、幕府領は上白瀬村と改め分立

天正一九年(一五八三)一〇月二六日の前田利家印判状(能登国古文書)に「白瀬村」とみえ、越中木船きぶね(現富山県福岡町)城主石黒光教の末男石黒善九郎(房勝)と同兵蔵が村内の三〇俵七升五合を与えられている。土方雄久知行目録に白石村とみえ、慶長一一年(一六〇六)から高六四八俵余が土方領、うち荒九八俵余を除き四割が百姓得分。


白瀬村
しろせむら

[現在地名]豊田市幸海こうかい

ともえ川西岸にあり、対岸は簗山やなやまである。足助あすけ街道と白瀬―酒呑しやちのみを結ぶ畑ヶ道が通る。村域に西垣内にしがいと小垣内こがいと古垣内ふるがいとというカイト名が残る。近世初めは幕府領、寛永二年(一六二五)酒呑の鈴木友之助領、元禄六年(一六九三)に幕府領、宝永二年(一七〇五)吉田藩領となって明治に至る。松平地区での吉田藩領は、白瀬村九〇石余と西野にしの村のうち二四石余のみである。享和二年(一八〇二)三月銘の石仏聖菩薩があり、異変が起こると汗をかいて村人に知らせるという伝承をもち、地域の信仰を集めている(豊田市史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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