白石村
しろいしむら
[現在地名]白石区東札幌一条一―六丁目・東札幌二条一―六丁目・東札幌三条一―六丁目・東札幌四条一―六丁目・東札幌五条一―六丁目・東札幌六条一―六丁目・中央一条一―七丁目・中央二条一―七丁目・中央三条一―六丁目・南郷通一丁目北・南郷通二丁目北・南郷通三丁目北・南郷通四丁目北・南郷通五丁目北・南郷通六丁目北・南郷通七丁目北・南郷通八丁目北・南郷通九丁目北・南郷通一〇丁目北・南郷通一一丁目北・南郷通一二丁目北・南郷通一四丁目北・南郷通一五丁目北・南郷通一六丁目北・南郷通一七丁目北・南郷通一八丁目北・南郷通一九丁目北・南郷通二〇丁目北・南郷通一丁目南・南郷通二丁目南・南郷通三丁目南・南郷通四丁目南・南郷通五丁目南・南郷通六丁目南・南郷通七丁目南・南郷通八丁目南・南郷通九丁目南・南郷通一〇丁目南・南郷通一一丁目南・南郷通一二丁目南・南郷通一三丁目南・南郷通一四丁目南・南郷通一五丁目南・南郷通一六丁目南・南郷通一七丁目南・南郷通一八丁目南・南郷通一九丁目南・南郷通二〇丁目南・南郷通二一丁目南・本郷通一丁目北・本郷通二丁目北・本郷通三丁目北・本郷通四丁目北・本郷通五丁目北・本郷通六丁目北・本郷通七丁目北・本郷通八丁目北・本郷通九丁目北・本郷通一〇丁目北・本郷通一一丁目北・本郷通一二丁目北・本郷通一三丁目北・本郷通一丁目南・本郷通二丁目南・本郷通三丁目南・本郷通四丁目南・本郷通五丁目南・本郷通六丁目南・本郷通七丁目南・本郷通八丁目南・本郷通九丁目南・本郷通一〇丁目南・本郷通一一丁目南・本郷通一二丁目南・本郷通一三丁目南・本通一丁目北・本通二丁目北・本通三丁目北・本通四丁目北・本通五丁目北・本通六丁目北・本通七丁目北・本通八丁目北・本通九丁目北・本通一〇丁目北・本通一一丁目北・本通一二丁目北・本通一三丁目北・本通一四丁目北・本通一五丁目北・本通一六丁目北・本通一七丁目北・本通一八丁目北・本通一九丁目北・本通二〇丁目北・本通二一丁目北・本通一丁目南・本通二丁目南・本通三丁目南・本通四丁目南・本通五丁目南・本通六丁目南・本通七丁目南・本通八丁目南・本通九丁目南・本通一〇丁目南・本通一一丁目南・本通一二丁目南・本通一三丁目南・本通一四丁目南・本通一五丁目南・本通一六丁目南・本通一七丁目南・本通一八丁目南・本通一九丁目南・本通二〇丁目南・本通二一丁目南・平和通一丁目北・平和通二丁目北・平和通三丁目北・平和通四丁目北・平和通五丁目北・平和通六丁目北・平和通七丁目北・平和通八丁目北・平和通九丁目北・平和通一〇丁目北・平和通一一丁目北・平和通一二丁目北・平和通一三丁目北・平和通一四丁目北・平和通一五丁目北・平和通一六丁目北・平和通一七丁目北・平和通一丁目南・平和通二丁目南・平和通三丁目南・平和通四丁目南・平和通五丁目南・平和通六丁目南・平和通七丁目南・平和通八丁目南・平和通九丁目南・平和通一〇丁目南・平和通一一丁目南・平和通一二丁目南・平和通一三丁目南・平和通一四丁目南・平和通一五丁目南・平和通一六丁目南・平和通一七丁目南・栄通一―二一丁目・北郷・北郷一条一―一四丁目・北郷二条一―一四丁目・北郷三条一―一四丁目・北郷四条一―一四丁目・北郷五条三―一〇丁目・北郷六条三―四丁目・同七―一〇丁目・北郷七条三―四丁目・同七―一〇丁目・北郷八条三―四丁目・同七―一〇丁目・北郷九条三丁目・同七―九丁目・川北・川北一条一―三丁目・川北二条一―三丁目・川北三条一―三丁目・川北四条一―三丁目・川北五条一丁目・川下・川下一条四―九丁目・川下二条四―八丁目・川下三条三―七丁目・川下四条一―六丁目・川下五条一―四丁目・流通センター一―七丁目、厚別区大谷地東一丁目など
明治四年(一八七一)から同三五年までの村。
白石村
はくいしむら
[現在地名]宍道町白石
西来海村の西に位置し、南は大原郡東谷村(現加茂町)。宍道湖に面する北側を山陰道が通り、村の中央を同道川などが北流する。天文二四年(一五五五)二月二八日の尼子晴久寄進状(出雲大社文書)に白石村とみえ、尼子晴久は同村五〇貫を杵築大社(出雲大社)に寄進している。正保国絵図に村名がみえ、元禄十年出雲国郷帳では高一千三五七石余、寛文四年(一六六四)の本田高一千三二九石余・新田高四斗余。「雲陽大数録」では高一千二三〇石。文化一〇年(一八一三)の天文方御用手鑑によると家数二一一・人数一千一五一。文久二年(一八六二)の意宇郡村有高輪切帳(広島大学附属図書館蔵)では高一千二九六石余、家数二四八・人数一千一五八。当村は五区に分けられ、本郷分に堂ノ前輪・戸井口輪・香ノ木輪・鈿田輪・森脇輪・深田輪、下倉分に滝田輪・三百歩輪・橋詰輪・門田輪・上半田輪、才谷分に完道境輪・縄手上輪・丸田輪、坂口分にしがらみ輪・堂ノ上輪・完道境輪・松ノ前輪・縄手ノ上輪、金山分に川原田輪・鋳物屋輪・中山輪の合せて二二の輪が設定されていた(同輪切帳)。
白石村
しろいしむら
[現在地名]東秩父村白石
皆谷村の南、槻川の源流域に位置する。南を白石峠・堂平山、東を笠山、西を定峰峠が取巻く標高約四〇〇―六〇〇メートル余の山間の村である。集落はおもに槻川沿いの小規模な平地に散在し、細山・丸塚・大日向・栃木・近平・中沢・野土・薬師堂・荒屋舗・夏内・猪捕場・てし河原・烏帽子岩・茗荷沢・唐沢・こだわ・栃窪・竹花・猪鼻・塚下・経塚・塚本・清水・北畑・下河原・本開戸・灘原・すずきノ平など一―二戸を単位とする小さな小名集落から構成される。玉川領に属した(風土記稿)。田園簿によれば高二二石余(皆畑)、紙舟役永一二五文・山銭永四〇〇文が課せられ、幕府領。
白石村
しらいしむら
[現在地名]葉山村白石
新荘川の最上流部、杉ノ川村の西にあり、梶足は杉ノ川村の東隣にある飛地である。西方には船戸村(現東津野村)に通じる険阻な布施ヶ坂がある。地名について「土佐州郡志」は「山川白石多故名」と記す。天正一六年(一五八八)の津野半山地検帳に白石の地名がみえ、村域の地積一〇町七反余、ヤシキ五一筆と推定される。ほとんどが津野氏直轄地で、ほかに聖音院領や津野氏家臣白石源介・山内右衛門大夫の給地があった。
白石村
しろいしむら
[現在地名]藤岡市白石
鮎川が東境を北流し、西は三木村と多胡郡小串村・黒熊村(現多野郡吉井町)、南は緑埜村、北は上落合村と接する。南部を東西に下仁田道が抜ける。北部の北原台地東端の硯坂付近は縄文土器散布地で、先土器時代のポイント(石槍)が発見された。ここより南方にかけて大小約一八〇基が存在する白石古墳群があり、なかでも全長一四〇メートルの稲荷山古墳は五世紀初期の大前方後円墳で、東西二つの竪穴式石室をもち、一古墳では珍しい八個の家形埴輪が発掘された。また七世紀後半の築構と思われる円墳喜蔵塚古墳は唐尺を採用した精巧な切石積石室を有しており、古代豪族の居住地であったことが推定される。
白石村
しらいしむら
[現在地名]養老町養老・養老公園・高林・京ヶ脇
柏尾村の南、養老山地の東山腹に立地し、流出する滝谷が形成した扇状地が広がる。孝子伝説で著名な養老の滝がある。東は鷲巣村。千人塚に白石一号墳(円墳、直径三〇メートル、高さ五メートル)を最大とする四基の円墳が残る。もとは十数基あったという。永正元年(一五〇四)正月の天神社社殿造立棟札(養老神社蔵)の裏書に「濃州多藝郡白石村惣氏子中」とある。
慶長郷帳に村名がみえ、高一六〇石余。
白石村
しらいしむら
[現在地名]香北町白石
蕨野村の南西、背後に迫る山嶺を境として南東は槙山郷(現物部村)。狭い河岸段丘上、物部川沿いに延びた小村。
天正一六年(一五八八)の韮生谷地検帳は広くない村域を影古味ノ村七筆と白石ノ村一〇筆に二分し、影古味名・安丸名・白石分・蕨野分が入組んで記される。安丸名は安丸孫大良の給地、蕨野分は蕨野孫左衛門の扣地、影古味名と白石分は山崎藤大夫の給地で、「先善兵衛分」との添書がある。これは周辺から開発者が入込み、そのうえ支配関係に変動があったことを示す。山崎氏系図(「香北町史」所収)によれば、同氏は山城国山崎の出身で、藤太夫祐明のとき土佐へ下って長宗我部氏に仕え、岡豊の別宮八幡宮(現南国市)の下司となった。
白石村
しろいしむら
明治三五年(一九〇二)から昭和二五年(一九五〇)までの村。明治三五年四月に白石村と上白石村が合併して成立し、二級町村制を施行した。白石村・上白石村の二大字を設置し、大字白石村には大谷地・野津幌・下野津幌・厚別・米里の各小字が置かれていた。同年九月に村内を米里・上白石・横町・中央・本通・南郷・北郷・大谷地・川下(以上現白石区)、旭町・東部・西部・野津幌・下野津幌(以上現厚別区)の一四部に区分した(白石村誌)。村役場は中央(現本通一丁目)に置かれた。
白石村
しろいしむら
[現在地名]飽田町白石・会富
千間江湖の東端に位置し、南は鵜森村(現天明町)、東は妙実村に接する水田地帯。天文四年(一五三五)の鹿子木親員知行目録(鹿子木文書)に「九町 白石」とあり、弘治二年(一五五六)五月二日の天草の豪族志岐氏に宛てた菊池高鑑預ケ状(志岐文書)に「飽田郡河尻之庄白石之内拾町」とある。天正年間(一五七三―九二)と思われる山上衆知行目録写(内田文書)に「河尻之内白石」の「一所三段 田尻伊豆守」、「河尻白石中むた」の「一所壱町三反 牛嶋小三郎」、「河尻白石河尻之内」の「一所五段 牛嶋弥三兵衛尉」、「河尻白石」の「一所弐反 牛嶋美濃守」、「河尻白石」の「一所五段 牛嶋兵部丞」が記される。
白石村
しらいしむら
[現在地名]岡山市白石・白石東新町・白石西新町
久米村の北にある。東は笹ヶ瀬川を限り、対岸は北長瀬村、西は境目川で備中都宇郡庭瀬町分の田地と境し、北は花尻村。枝村に上白石がある。慶長七年(一六〇二)の小早川秀詮朱印状(黄薇古簡集)によれば、当村などのうちで七七石余が下方覚兵衛に与えられている。寛永備前国絵図に村名がみえ、高八八七石余。「備陽記」によると田畑六二町八反余。元禄(一六八八―一七〇四)頃の手鑑(則武文書)では直高九二九石余、蔵入。家数三五・人数二二三、牛一七。
白石村
しらいしむら
[現在地名]岐宿町川原郷 白石
河原村の北に位置し、集落は白石浦に臨む。浦の西手に障子ヶ岳がある。古代に遣唐使船が寄港した川原浦は当地とされ、修理の際につなぎ止めたという艫綱石が伝えられ、浦口の魚津ヶ崎に遣唐使船ゆかりの碑が建つ。江戸時代は福江藩領岐宿掛に属する。村内の足軽佐々野文助は元和五年(一六一九)の大浜事件で大浜主水に一味しなかったとして恩賞を受けている(五島資料雑集・五島編年史)。
白石村
しろいしむら
[現在地名]美里町白石
大仏村の枝郷。八王子構造線の山並とそこから派生する松久丘陵にかけての山間の村。天神川が北東流し、同川に沿って集落と耕地が発達する。東は湯本村、南は円良田村と秩父郡矢那瀬村(現長瀞町)、北は大仏村。天正四年(一五七六)八月一一日の聖護院門跡御教書写(武州文書)に「武州白石宝積坊」とある。同一二年一二月七日、北条氏邦の重臣猪俣邦憲は光厳寺に「忍領白石之村」の百姓地手元分を寄進した(「猪俣邦憲判物」光厳寺文書)。慶長一九年(一六一四)八月には、成瀬右衛門(正勝)が徳川氏から「榛沢郡白石郷之内」で三一七石余を宛行われているが(記録御用書本古文書)、白石郷はのちの当村および大仏・湯本両村をさすとみられる。
白石村
しらいしむら
[現在地名]上那賀町白石
大殿村の西、那賀川の上流山間に位置し、北は那賀郡横谷村(現木沢村)と接する。海部郡に属し、平谷村の枝村である。慶長期(一五九六―一六一五)のものと推定される国絵図には白石とみえる。正保国絵図によると「木頭之内白石村」とみえる。寛文四年(一六六四)の郷村高辻帳では海部郡木頭村(現木頭村・上那賀町)の枝村として村名がみえる。文化一〇年(一八一三)の高都帳では平谷村のうちに白石村がみえ高二六石余。「阿波志」では白石は平谷村の支落とある。天保郷帳では木頭村の高に、旧高旧領取調帳では平谷村の高に含まれると思われる。文化九年の平谷村棟付帳(海部郡誌)によると家数一四六、うち堂四・神主一、人数七二〇。
白石村
しろいしむら
[現在地名]旭町杉本
矢作川の支流白石川に沿い、東は明賀村・九沢村、南は沢尻村、西は大坪村・菊田村、北は小渡村に接する。集落は谷地形の中の山麓に点在。現主要地方道土岐―足助線が中央を南北に通じる。白石城跡が白石川との比高約一九〇メートルの山頂にある。通称城ヶ峯とよぶ。山頂約一アールを平らに削り、下に幅五―六メートルの帯曲輪をめぐらす。山麓に古神明館とよぶ居館跡があり、近くに宝篋印塔もある。
白石村
しらいしむら
[現在地名]菊水町瀬川
菊池川の左岸に位置し、東は日平村、北は江田村、南は上小田村(現玉名市)と接する。慶長一三年(一六〇八)の検地帳に「北白石村」とあり、田三町八反三畝余・畠五町三反八畝余・屋敷三筆五反二畝余、分米八三石七斗余、家数一一・人数一一、牛馬四、下ケ名に城戸口・塔ノ下などがある。近世は内田手永に属し、南端に手永会所が置かれていた。「国誌」に「松坂ト云小村アリ」とあり、菊池川に賃渡しの船渡場があった。文政二年(一八一九)渡場付近に白石堰が手永惣庄屋小森田雅寛によって築かれ、小田周辺一帯の用水源となった(堰碑)。天保五年(一八三四)の内田手永手鑑によると揚酒本手一・濁酒本手一がいる。
白石村
しらいしむら
[現在地名]東郷町白石
野方村の南東、舎人川支流白石川の上流に位置する。拝領高一五一石余。羽原氏の給地があった(給人所付帳)。宝暦三年(一七五三)頃の河村郡村々明細帳(近藤家文書)によると朱高一六五石余、高一八一石余、うち畑高九石余。免四ツ五分。悪田加損米六石。棟数二軒・役高四〇人。産土神は松尾大明神で、男六七・女六二。幕末の六郡郷村生高竈付では生高一九五石余、竈数三〇。方地村と草山の入会争論があり、享保一八年(一七三三)見分のうえ、当村分は「馬場ノ谷かまくら尾なひく仏谷」とされた。
白石村
しらいしむら
[現在地名]美山町大字白石
知井一二ヵ村の一。由良川の支流佐々里川流域に開ける山間集落。北(下流)は芦生村、南(上流)は佐々里村。古代は「和名抄」に記す弓削郷に属し、鎌倉時代以降は知井庄の地。
慶長七年(一六〇二)幕府領、天保六年(一八三五)より園部藩領となる。元禄一三年(一七〇〇)丹波国郷帳によると、高八・九五六石、旧高旧領取調帳では四二・三二四石。
白石村
しらいしむら
[現在地名]蘇陽町白石
東は日向国臼杵郡鞍岡村(現宮崎県西臼杵郡五ヶ瀬町)、西は方ヶ野村、北は大野村・須刈村、南は神前村と接する。五ヶ瀬川の小谷が東に、緑川支流の大矢川の小谷が西に分流する地にあり、標高約六二〇メートル。
白石村
しらいしむら
[現在地名]矢部町白藤
東から北にかけては新藤村、南は津留村と緑川を挟んで菅村がある。正平九年(一三五四)八月一三日の肥後矢部郷村注文(阿蘇家文書)に「しろいし」とみえ、貫高は五貫。慶長八年(一六〇三)当村の総高八五石一斗一升が長尾安右衛門に宛行われている(同年一二月九日「加藤清正黒印状」弥富文書)。慶長国絵図に村名がみえる。矢部手永に属し、文政九年(一八二六)の矢部手永略手鑑によれば高一一四石七斗余、田畝二町九反三畝余・畑畝三町七反四畝余、竈数二〇・男四七・女三四、牛二三・馬一四。
白石村
しらいしむら
[現在地名]芦北町白石
球磨川左岸にあり、下流は箙瀬村、対岸に球磨郡神瀬谷村(現球磨村)の石灰洞窟がある。当村も石灰岩が多く、村名も石灰岩が白く見えることによると思われる。「しろいし」とも発音する。寛永一六年(一六三九)の葦北郡地侍御知行割帳(徳富文書)に村名がある。元禄国絵図に「大河内村之内白石村」とある。田浦手永に属し、「国誌」に「大河内村ノ内」と注記され、「西行帰岩」の伝承を載せる。
白石村
しらいしむら
[現在地名]山鹿市古閑
菊池川右岸の十三部台地東端に位置し、南は方保田村、西は古閑村と接する。寛文九年(一六六九)の「一統志」に「白石 観音」とある。中村手永に属し、「国誌」には高九四石余、熊野宮・熊野三社宮を記す。文化八年(一八一一)の中村手永請免一紙帳(坂田文書)によると高一四〇石一斗余、田二町二反三畝余・畑八町四反三畝余、御土物成四〇石六斗余とある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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