百舌鳥野(読み)もずの

日本歴史地名大系 「百舌鳥野」の解説

百舌鳥野
もずの

堺市北部中央、三国みくにおか台地と称される辺りを称した。百舌鳥を冠した町名が残る。「日本書紀」仁徳天皇四三年九月の条に「百舌鳥野」とみえ、依網屯倉阿弭古の献じた鷹を百済からの渡来人である酒君が訓練し、当地で遊猟して多くの雉をえたとある。また同六七年一〇月条によると、造陵中の役民のなかへ鹿が走込んで死んだが、その鹿の耳から百舌鳥が飛去ったことから、その地を百舌鳥耳原もずのみみはらと称したとある。さらに同八七年一〇月条には仁徳天皇を「百舌鳥野陵」に、履中天皇六年一〇月条に履中天皇を「百舌鳥耳原陵」に、允恭天皇五年一一月条には反正天皇を「百舌鳥耳原陵」に葬った記事がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

百科事典マイペディア 「百舌鳥野」の意味・わかりやすい解説

百舌鳥野【もずの】

大阪府堺市の北部中央,三国ヶ丘(みくにがおか)台地と称される辺りを称し,現在一帯に百舌鳥を冠した町名が残る。《日本書紀》仁徳43年9月条に〈百舌鳥野〉とみえ,依網屯倉(よさみのみやけ)阿弭古(あびこ)の献じた鷹を百済(くだら)からの渡来人である酒君(さけのきみ)が訓練し,当地で遊猟して多くの雉を得たとある。また同67年10月条には,造陵中の役民(えきみん)のなかへ鹿が走込んで死んだが,その鹿の耳から百舌鳥が飛去ったことから,その地を百舌鳥耳原(もずのみみはら)と称したとある。さらに同87年10月条には仁徳天皇を〈百舌鳥野陵〉に,履中6年10月条に履中天皇を〈百舌鳥耳原陵〉に,允恭5年11月条には反正天皇を〈百舌鳥耳原陵〉に葬った記事がある。なお《古事記》ではこれらの陵墓の所在を記すときに〈毛受(もず)〉の字を用いている。百舌鳥野一帯は河内(かわち)の古市(ふるいち)と並んで,5世紀代に巨大古墳が集中的に造営された地域である。これらの大古墳の造営にかかわった氏族土師氏で,この地の土師氏(毛受腹)はのち大枝氏を賜姓された。

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