土師氏 (はじうじ)
埴輪の製作や陵墓の造営に従事し,また,大王の喪葬儀礼に関与した古代の氏族。後には,軍事や外交方面でも活躍した。土師氏の名は,ハニ(土器や瓦などの製作に適した粘土)に由来する。すなわち,ハニを用いて作られるのが埴輪や土師器(はじき)であり,製作する工人がハニシ(土師)であった。大王墓の墳丘上に樹立される埴輪が大量であり,また運搬上の困難さを考慮すると,埴輪作りに適したハニのある場所の近くに土師氏が居住し,大王墓が設けられたと考えられる。応神天皇陵古墳を盟主とする古市古墳群が羽曳野丘陵の近傍に所在するのも,理由のあることであった。なぜなら,仁賢天皇の埴生坂本陵,来目皇子の河内埴生山岡上の墓,履中即位前紀に見える埴生(はにゆう)坂の表記からすると,現在の羽曳野丘陵は古代には埴生山と呼ばれており,埴生とはハニの豊富にある場所の意だからである。
土師氏には,4系統が知られており,それぞれハニや大王墓の分布と対応している。大和の菅原や秋篠地域の土師氏は,奈良山丘陵(〈青丹よし〉の枕詞は奈良山に良質のハニの存在することを示している)の南斜面に分布する佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群と対応し,河内古市の土師氏と和泉の毛受腹(もずばら)の土師氏は,それぞれ古市古墳群と百舌鳥(もず)古墳群に対応する。古市古墳群は羽曳野丘陵およびその周辺に分布しているし,百舌鳥古墳群の近くにも堺市北区の百舌鳥赤畑町のようにハニの存在を示す地名がある。土師氏と大王陵の分布がこのようにみごとに対応する事実は,それぞれの古墳群の周辺に住み,埴輪作りに従事した工人たちが,後になって土師連の支配下に入った結果,同一氏族であるかのように主張したことを示している。元来は,相互の血縁関係は存在しなかったのであろう。奈良時代後期から末期にかけて改氏姓を願い出る氏族が増加し,土師氏も,その氏の名が凶礼にあずかることに結びつけられやすいことを理由に,改氏姓を願い出た。そしてその拠地により,菅原氏,秋篠氏,大枝氏となった。
執筆者:和田 萃
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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土師氏【はじうじ】
古代の豪族。埴輪(はにわ)の製作,陵墓(りょうぼ)の造営,大王(おおきみ)の葬送儀礼などに関与した。その名はハニ(土器などを製作する粘土)に由来し,ハニで作られるのが埴輪や土師器(はじき),その工人をハニシという。土師氏の居住地と陵墓の分布はかなりの対応をなしているが,元来は居住地に住む住人相互の間には血縁関係はなかったようで,のち土師連(むらじ)の支配下に入って,同一氏族であるかのような主張をしたとみられる。奈良後期から末期にかけて,居住地を本拠として菅原氏・秋篠氏・大枝(おおえ)氏(大江氏)となった。
→関連項目高野新笠
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土師氏
はじうじ
土師部の伴造(とものみやつこ)氏族。姓(かばね)は連(むらじ)。土部連にもつくる。684年(天武天皇13)12月宿禰(すくね)賜姓。王族・高官の陵墓築造、葬礼執行を伝統的職掌としていたが、大化の薄葬令(はくそうりょう)施行と7世紀末以来の火葬普及によって墓制や葬法が変化すると、職掌に打撃を受け勢力を失い、一般的な官人として活動する者も現れた。桓武(かんむ)朝の781年(天応1)、782年(延暦1)、790年の3回にわたり改氏姓を請願し、菅原(すがわら)、秋篠(あきしの)、大枝(おおえ)の三氏(朝臣(あそみ))に分かれた。
[前川明久]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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土師氏
筑紫[ちくし]で亡くなった来目皇子[くめのおうじ]の仮の葬儀をするために娑婆[さば]に送られた土師連猪手[はじのむらじいて]がそのまま居着いた後の子孫だと言われています。周防国府[すおうこくふ]の役人の中にも名前が見られ、松崎天神[まつざきてんじん]をつくったのも土師氏です。
出典 ほうふWeb歴史館防府市歴史用語集について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の土師氏の言及
【遊部】より
…日本古代において,大王の喪葬儀礼に従事した集団。埴輪の製作,大王陵の造営や喪葬儀礼に従事した氏族として,[土師(はじ)氏]がよく知られている。遊部は,土師氏に統轄されて,殯宮(もがりのみや)内の諸儀礼に供奉する集団であったらしい。…
【大江氏】より
…790年(延暦9),桓武天皇の外祖母の一族[土師(はじ)氏]に大枝朝臣の姓を賜ったのに始まる氏族。菅原氏と同祖である。…
※「土師氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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