相野原村(読み)あいのはらむら

日本歴史地名大系 「相野原村」の解説

相野原村
あいのはらむら

[現在地名]小国町相之原あいのはら

小栗山こぐりやま村の北に続く。渋海しぶみ川のつくる河谷平地のうち最も広い所にある。小国西組に属する。江戸初期までは渋海川左岸にあったと伝えるが、正保国絵図には右岸に記され、「相ノ原村」高一九〇石余。近世初めは高田藩領に属し、松平光長治政に刈羽郡柏崎組代官鳴海九右衛門の支配を受け、その下代伊東加兵衛が当村に滞陣小国郷を支配したという。また小国西組大肝煎山崎忠助も詰所を当村に設けている。天和元年(一六八一)から幕府領、正徳元年(一七一一)から与板藩領、文化一二年(一八一五)再び幕府領、文政元年(一八一八)出羽国の上山藩領。


相野原村
あいのはらむら

[現在地名]岩槻市相野原

村の北、元荒川支流のにつ川左岸に位置し、慈恩寺じおんじ台地上に集落が形成されている。日光御成道が通り、岩槻宿一里塚から北へ一里の一里塚がある。東塚は復元され、西塚は半分残存し、県指定の史跡。宝暦六年(一七五六)まで岩槻藩領であったが、同年上知、明和七年(一七七〇)から文政四年(一八二一)まで川越藩領(松平藩日記)、同年から天保二年(一八三一)まで幕府領(「風土記稿」など)、改革組合取調書では旗本堀領。田園簿にはみえない。「寛文朱印留」に相原村とみえ、岩槻藩領。延宝八年(一六八〇)の岩付領内村名石高家数人数寄帳(吉田家文書)によると家数六(本百姓三・分ケ地二・水呑一)、人数八五、岩槻藩の地方支配は高岩たかいわ筋所属。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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