真壁村(読み)まかべむら

日本歴史地名大系 「真壁村」の解説

真壁村
まかべむら

[現在地名]総社市真壁・溝口みぞぐち中原なかばら

三輪みわ村の北から西、高梁たかはし川左岸沿いに位置し、南は軽部かるべ村枝村の柿木かきのき(現都窪郡清音村)と接する。古代の窪屋くぼや真壁郷(和名抄)の遺称地。中世には真壁氏(薬師寺)が勢力を張っていた。貞和三年(一三四七)の二階堂行秀言上状断簡(玉燭宝典裏書)によると真壁郷領主の真壁彦三郎は罪科によって流刑とされていた。行秀は前年に但馬国高田たかだ庄を賜ったが闕所でなかったため、改めて真壁氏跡の真壁郷を与えられるよう幕府に要請している。永享元年(一四二九)の惣社宮造営帳写(池上文書)では「マカヘ」は後陣をつとめている。吉備津神社の流鏑馬料足納帳には長禄二年(一四五八)分として「まかへ」は五貫文を納めるが、二貫文は地下徳分、三貫文は直納であった。戦国末期には宝福ほうふく寺の寺領二〇貫文が真壁郷にあった(天正四年「宝福寺領検地帳」宝福寺文書)

真壁村
まかべむら

[現在地名]北橘村真壁

赤城山南西麓に位置する。木曾きそ(間之沢川)後沢しりさわ川の二細流が輻射谷を台地に刻み西流する舌状台地に形成された山麓原が、利根川で阻まれ高さ約一〇〇メートルの山麓崖をなす台地上に広がる村。下箱田しもはこだ村・箱田村・中箱田村の北に位置。「和名抄」の勢多郡の郷名に真壁郷があり、この地域がそれに比定されている。小字にも御門みかど味噌野みその(御園)など注目すべきものがあり、またその付近には小古墳群が存在、その中の字下山田原しもやまだはら一一〇号墳出土品に蕨手太刀(赤城神社蔵)がある。山麓崖上には火山泥流溢流によって形成された愛宕あたご山・じよう山があり、城山山頂には戦国期の真壁城跡がある。元亀二年(一五七一)四月一六日の厩橋(前橋)城主北条高定書状(前橋八幡宮文書)に「真壁三清寺」とみえるが、三清さんせい寺については未詳。

真壁村
まかびむら

[現在地名]糸満市真壁まかべ

真壁まかび間切の中央に位置し、北は高嶺たかんみ間切国吉くにし村。絵図郷村帳島尻真加比しまじりまかび間切「まかび村」、琉球国高究帳に同「真加比村」とあり、「琉球国由来記」には真壁間切真壁村とみえる。真和志まーじ間切真嘉比村(現那覇市)も絵図郷村帳や琉球国高究帳に「まかび村」とあり、由来記にも真壁村と記されたが、のちに真嘉比に定着した。前掲高究帳によると頭高一四五石余、うち田九六石余・畠四八石余。真壁間切同村どうーむらとよばれ間切番所が置かれた。

真壁村
まかびむら

大里うーざとう間切の西部にあった村。間切集成図によると北は当間とーま村、東は仲程なかふどう村、南は平川ひらかー村、西は南風原ふえーばる間切喜屋武ちやん(現南風原町)。絵図郷村帳には島添大里しましーうーざとう間切「まかび村」とあるが、琉球国高究帳・「琉球国由来記」にはみえない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報