真壁城跡(読み)まかべじようあと

日本歴史地名大系 「真壁城跡」の解説

真壁城跡
まかべじようあと

[現在地名]北橘村真壁 城山

木曾きそ川と弁天べんてん川の形成した舌状台地の西端、山麓崖上の火山泥流溢流の小丘じよう(二〇九・五メートル)の上にある。東西五〇メートル、南北七〇メートルの小丘城である。空濠・土居が残るが、西北面の濠・土居は屏風折をもつことから戦国末期の築造または補修が考えられる。築城者不明。城山下、東南約三〇〇メートルの所、字堀之内ほりのうちに小流に挟まれ、北側に堀切をした一角がある。


真壁城跡
まかべじようあと

[現在地名]真壁町古城

足尾あしお山西麓の台地上にある。県指定史跡。平安末期の承安二年(一一七二)多気直幹の子六郎長幹の築城といわれる。以後長幹は地名を名字に真壁氏を名乗る。長幹は文治五年(一一八九)には常陸守護八田知家に従って奥州藤原氏を追討(「吾妻鏡」同年八月一二日条)、翌建久元年(一一九〇)一一月七日には源頼朝に従って上京している(同書)


真壁城跡
まかべじようあと

[現在地名]富岡町下郡山 真壁

阿武隈高地東縁から東方に発達した低位丘陵の東端部の、海岸線から一キロ入った海岸段丘上に立地する。一四世紀末から一五世紀初頭頃に築城され、一六世紀に盛期を迎えた。昭和五〇年(一九七五)・翌五一年に調査を実施。城跡は四つの郭で構成され、居館を中心に三方に張出す台地をそれぞれ郭としている点に占地上の特色がある。この占地は南東方を意識した構えである。郭内には掘立柱建物跡が数多く検出され、建替えが幾度か繰返されたことが推定される。そのほか竪穴住居跡・溝跡なども検出されている。出土遺物をみると、龍泉窯系青磁・白磁、景徳鎮窯系染付などの輸入陶磁をはじめ、美濃・瀬戸などの搬入品、それと在地産の陶磁器、聖宋元宝・鉄滓・小札・釘などの金属製品、漆器・石製品などがある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「真壁城跡」の解説

まかべじょうあと【真壁城跡】


茨城県桜川市真壁町にある城跡。筑波山系、足尾山西麓の台地上に所在し、本丸を中心に4重の堀と土塁をめぐらし、土橋などもよく残っている。本丸は標高47mにあり、南北100m、東西80m、本丸を囲む堀の周囲に同心円状に二の丸があり、その東側に三の郭(中城)・四の郭(外郭)が続き、外郭の南東端に鹿島神社が祀られている。1172年(承安2)、坂東平氏の流れをくみ、真壁郡に入って真壁氏を名のった大掾(だいじょう)多気直幹(たけなおもと)の4男長幹(ながもと)が、郡家の場所に築城したと伝えられ、以後、真壁氏の居城となった。1341年(興国2・暦応4)に北畠親房(ちかふさ)の「御方城々」と文献に記され、南朝方の城であったことがわかる。その後、北朝方に降って室町幕府から本領を安堵されたが、戦国時代には激しい戦乱の場となった。豊臣秀吉から常陸国(ひたちのくに)を安堵された佐竹氏の家臣となっていた真壁氏は、佐竹氏の秋田転封にともなって出羽角館(かくのだて)に移住した。1606年(慶長11)には浅野長政が真壁藩5万石を与えられ、跡を継いだ長重が入城したが、笠間城に移り、その後、真壁城は廃城となった。1994年(平成6)、国の史跡に指定された。真壁城の城門を移築したとする薬医門が、楽法寺(桜川市)などにあり、城跡は真壁城跡公園になっている。JR水戸線岩瀬駅から車で約20分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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