厩橋(読み)ウマヤバシ

百科事典マイペディアの解説

厩橋【まやばし】

上野国の中央,利根川左岸の群馬郡の地名。もと〈うまやばし〉だったものが,〈う〉が脱落して〈まやばし〉となり,さらに江戸時代初期に〈前橋(まえばし)〉と記されるようになって定着,現在の群馬県前橋市の名に引き継がれている。東山(とうさん)道群馬駅(くるまのえき)近くの川(利根川の前身)に架けられた橋から起こったともいわれる。戦国時代には厩橋城(前橋城)が築かれ,上杉謙信武田信玄北条氏康(ほうじょううじやす)らが関東の支配権をめぐって争った際の拠点の一つとなった。1394年に没したと伝える蒼海(おうみ)城(現,前橋市)城主長尾忠房が石倉(いしくら)に新城を築いたが,応永(1394年−1428年)から天文(1532年−1555年)にかけての洪水のため流失し,その後長野宮内大輔賢忠(厩橋賢忠,藤九郎)が残部をもとに築いた新石倉城が最初の厩橋城という。現在前橋城跡対岸にある石倉城跡とは別の城である。長野賢忠は箕輪(みのわ)城(現,群馬県高崎市箕郷町)城主長野氏の支族で,周辺の大胡氏・引田氏らを率いて厩橋衆を形成していた。賢忠は,1560年以降関東に侵攻した上杉謙信に誅殺され,厩橋城には上杉氏によって北条(きたじょう)高広が配された。1567年北条(ほうじょう)・武田両氏の連合軍は厩橋の上杉謙信を攻撃した。1578年御館(おたて)の乱が起こると北条(きたじょう)氏は自立したが,1582年武田勝頼を滅ぼした織田信長滝川一益(たきがわかずます)を厩橋城に送り,北条高広ら上野の武士はこれに従った。本能寺の変後,滝川氏は小田原北条氏に追われ,厩橋城は北条氏照方の重要な拠点となった。1590年小田原北条氏は滅亡し,徳川家康の関東支配のもと平岩親吉が3万3000石で封じられた。1601年には酒井重忠,1749年には松平朝矩が15万石で入部した。→前橋藩

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世界大百科事典 第2版の解説

まやばし【厩橋】

上野国の地名(現在の前橋の旧地名)。国衙に近接する東山道群馬駅(くるまのうまや)の近くの川(現在の利根川の前身)に架けられた橋から,地名がおこったといわれる。利根川は厩橋の北東を流れていたが,鎌倉末あるいは応永期(1394‐1428)に現在の流路となった。戦国時代に箕輪城主長野氏の支族長野賢忠(厩橋賢忠,宮内大夫・藤九郎)が城を構え,周辺の大胡氏,引田氏らを旗下にして厩橋衆を形成していた。賢忠は1560年(永禄3)以降,関東に侵攻した上杉謙信に不慮の事故から謀叛の嫌疑をかけられ誅殺された。

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世界大百科事典内の厩橋の言及

【厩橋】より

…国衙に近接する東山道群馬駅(くるまのうまや)の近くの川(現在の利根川の前身)に架けられた橋から,地名がおこったといわれる。利根川は厩橋の北東を流れていたが,鎌倉末あるいは応永期(1394‐1428)に現在の流路となった。戦国時代に箕輪城主長野氏の支族長野賢忠(厩橋賢忠,宮内大夫・藤九郎)が城を構え,周辺の大胡氏,引田氏らを旗下にして厩橋衆を形成していた。…

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