日本歴史地名大系 「中村市」の解説 中村市なかむらし 面積:三八七・八六平方キロ高知県の西南部、四国第二の大河四万十(しまんと)川(渡川)の下流にある市で、県下九市中面積は最大であるが、人口密度(一平方キロ当り九二・七三人)は県平均(一一八・九二人)より低く、人口集中地区の面積は一・五平方キロでわずかに市域の〇・四パーセントにすぎない。耕地は中筋(なかすじ)川流域に東西に延びる中村平野と、四万十川と後(うしろ)川の河谷沿いの河岸段丘と氾濫原のわずかな平地に集中し、耕地率は七・八パーセント弱と低く、林野率は七九・二パーセントと高い。市の南東部、四万十川河口付近の一部を除き、幡多(はた)山地ともよばれる低い山地が取巻いている。東は幡多郡大方(おおがた)町北部の仏が森(ほとけがもり)(六八七メートル)から南下して石見寺(いしみじ)山(四一〇・九メートル)に至る後川左岸の低山地、北は杓子(しやくし)山(五九四・六メートル)から堂が森(どうがもり)(八五六・九メートル)を経て後川と四万十川の間を南下して中村の市街地北西まで延びる低山地、北西部にはホケガ森(七五一・三メートル)・鍋(なべ)ヶ森(もり)(六三五・一メートル)を経て大塔(たいとう)山(三八三メートル)・高森(たかもり)山(三三六メートル)に至る四万十川の右岸に沿って南下する低山地が中筋川左岸に至り、中筋川右岸、市の南部には貝(かい)ヶ森(もり)(四五四・六メートル)から葛籠(つづら)山(四七〇・九メートル)に至る山地が、隣接する幡多郡三原(みはら)村・土佐清水市との境をなす。四周の北方は、東から西へ幡多郡大正(たいしよう)町・十和(とおわ)村・西土佐(にしとさ)村、西は宿毛(すくも)市。国道五六号(かつての中村街道・宿毛街道)で幡多郡大方町・佐賀(さが)町、高岡郡窪川(くぼかわ)町・中土佐(なかとさ)町、須崎市方面および宿毛市と、同四三九号で幡多郡大正町方面と、同三二一号で土佐清水市と結ばれ、国鉄中村線およびそれに連絡する土讃本線・予土線で高知市・愛媛県宇和島(うわじま)市と結ばれる。市名は中世以来、幡多郡の政治・経済・文化の中心地であった「中村」による。〔原始・古代〕縄文晩期から弥生初期にかけて水稲栽培が行われたのではないかとみられる入田(にゆうた)遺跡、今は市街地の下深く眠る縄文晩期の中村貝塚、縄文後期・弥生時代から古墳時代にかけての複合遺跡の有岡(ありおか)遺跡など、四万十川と後川の合流地点である中村の市街地地区をはじめとして、その周辺および中筋川の流域と、後川流域の蕨岡(わらびおか)付近に遺跡が点在する。古墳は後川下流左岸の古津賀(こつか)・竹島(たけしま)・鍋島(なべしま)にあり、古津賀古墳はこの地方有数の古墳として復原されている。「国造本紀」に崇神天皇のとき、天韓襲命が波多(はた)国造に任じられたことがみえる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報