矢野口村(読み)やのくちむら

日本歴史地名大系 「矢野口村」の解説

矢野口村
やのくちむら

[現在地名]稲城市矢野口

現稲城市東部に位置し、北は押立おしたて(現府中市)向島むこうじま新田と下石原しもいしわら宿(現調布市)、東は橘樹たちばなすげ(現神奈川県川崎市多摩区)、南は山を境として同郡細山ほそやま(現神奈川県川崎市麻生区)、西は長沼ながぬま村。多摩川南岸の氾濫原にあり、大丸おおまる用水を利用して、市域で最も水田が多い地域である。北側を東西に八王子道が走り、これに交わるように南西から北東に江戸道が通る。また村の南側には三沢みさわ川が流れる。正平七年(一三五二)閏二月一七日に鎌倉を発向した足利尊氏軍は、同月一九日「谷口」に陣を置き、翌二〇日人見ひとみ(現府中市)で新田軍と戦った(同年三月日「高麗経澄軍忠状」町田文書)


矢野口村
やのくちむら

[現在地名]今市市矢野口

南を清水しみず川、北をうしろ川が東流する丘陵上にあり、北・西は塩野室しおのむろ村。中央を東西に日光北街道の一が通る。集落は後川の谷地東部に多く点在する。河内かわち郡に属する。日光山往古社領六十六郷のうちの「谷口郷」は当村のことと考えられる(日光山常行三昧堂新造大過去帳)。天正八年(一五八〇)正月二八日付の某本宮納物注文(輪王寺文書)には「やのくち」とあり、米一升八盃入・栗一二・もち米一升・豆腐の代一二文・柑子橘納入が催促されている。

寛永七年(一六三〇)下総山川藩の検地を受け(寛政五年「村明細帳」池田栄文書)、同二一年の名寄帳(同文書)によれば名請人六人で、持高最高四〇石余、最小七石余、屋敷持は四人。


矢野口村
やのくちむら

[現在地名]すさみ町矢の口やのくち

じよう川流域の渓谷にあり、東北はたに村、西はじよう(現日置川町)東南小附こつき村。村名は矢ヶ谷村の入口にあるところから起こったという(続風土記)。慶長検地高目録には「矢ノ口村」と記され、村高三九石余、小物成一斗七升。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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