石曾根村
いしぞねむら
[現在地名]柏崎市石曾根
東は森近村と鯖石川で境とし、西は山地で久米村、南は岡田村(現刈羽郡高柳町)、北は宮平村。集落は下流宮平村寄りから上流へ笹崎・行兼・宮之下・西之入・小清水と続く。毛利安田氏の惣領家石曾禰殿の遺称地と考えられる。応永一四年(一四〇七)一二月二六日の安田常全(憲朝)置文(毛利安田氏文書)に「亀一丸無子孫者、惣領石曾禰殿子息間ヲ為養子可譲者也」とあって、毛利安田氏の惣領家を石曾禰殿と称している。
石曾根村
いしぞねむら
北は郷沢川を境に田切村に、南は与田切川を境に本郷村に接する。東は天竜川で日曾利に相対し、西は南駒ヶ岳に達し、村の中央を伊那往還が南北に走り、飯島陣屋や飯島宿があった。
天正一九年(一五九一)の信州伊奈青表紙之縄帳に村高は「五百四拾三石九斗八升壱合七勺 石曾根」とあるのが初見である。しかし武田信玄の家臣小泉五郎左衛門がここに住み在名をもって家号とし、石曾根新左衛門が家督を受け、天正一〇年織田氏侵入の時、高遠で討死、家名を失ったと伝えられる。
石曾根村
いしぞねむら
高松村の南にある。天正二年(一五七四)五月一二日伊達輝宗は当地内新地に進出、陣地用の垣二重を構築し、高松まで攻め入った(「伊達輝宗日記」伊達家文書)。正保郷帳では田方三六四石余・畑方一〇九石余。元禄一一年(一六九八)の村明細帳(三浦文庫)では高四七六石余、うち新田三石、反別は田二三町八反余・畑一〇町四反余で、銭二貫八六文・薪七二駄が課され、鳥運上六〇〇文を納めている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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