高松村(読み)たかまつむら

日本歴史地名大系 「高松村」の解説

高松村
たかまつむら

[現在地名]高松町高松

内灘うちなだ砂丘の北端に位置し、加賀国河北郡に属する。南は木津きづ(現七塚町)、東は内高松うちたかまつ村・長柄ながら村、北は能登国羽咋はくい郡に属する中沼なかぬま村に接し、西は日本海に面する。能登街道が通る。近世初期には外高松そとたかまつ村とも記載され、元和二年(一六一六)の検地打渡状(高松町史)正保郷帳、寛文一〇年(一六七〇)の村御印(三箇国高物成帳)などでは外高松村とある。しかし寛文八年の河北郡浜方組裁許申付状(能登羽咋桜井平秋家文書)などには高松村とあり、加賀藩でも混用されていた。

〔中世〕

金津かなつ庄の内。文明一八年(一四八六)聖護院道興が当地を通り「高松といへる所に行くれて煙のたつをながめやりて」「すむ人のたのむ木陰やそれならん烟にくるゝ高松の里」と詠じている(廻国雑記)。延徳二年(一四九〇)正月二三日の能登国土田庄公用銭算用状(賀茂別雷神社文書、以下同文書は省略)に「壱貫七百文 金丸より高松まで兵士ニ送られ候、出候」とみえ、京都上賀茂社領能登国羽咋郡土田つちだ(現志賀町)に下向し、公用銭徴収に当たった京都の土倉野洲井助秀が、鹿島かしま金丸かねまる(現鹿西町)から兵士を雇って同じ上賀茂社領の加賀国金津庄の当地まで送らせ、以後海路で帰途についたことがわかる。

享禄(一五二八―三二)頃と推定される七月二〇日の金津庄村々納銭注文案に公用銭六五貫二五七文のうち四貫五六一文が「高松村納」とみえる。延徳三年九月に固定化したものを再編した天文六年(一五三七)正月の金津庄高松村名別公事銭等納帳に、徳王とくおう・重弘・国恒くにつね・守重・守光・国光・国友・定守・国弘・国沢(国津)・友案・清恒・清成・国吉・恒清・国とうの一六名と、寅丸とらまる宗弘むねひろ・国平・成国・真恒・守案の六つの脇名がみえる。このうち恒清名は「あき名」で名主不在、国とう名は「年尾ヘ御寄進」、寅丸は「庄内ヘ半名、松丸ニもあり、与知松丸拘」とあって与知よち(現宇ノ気町)の名主松丸の差配する脇名であった。また国沢名は内高松の千代丸が請負っていたようである(同五年一二月金津庄内高松村名別公事銭等納帳)。同七―八年分の高松村算用状案断簡でも徳王・国恒・守重・国弘・恒清・国友の六名が確認できる。同断簡には高松四郎左衛門の名もみえる。また元亀元年(一五七〇)一二月一八日の金津庄御帳紙数書立には「高松村 十壱枚半」とあって、天文六年の前掲納帳と同じく金津庄一〇ヵ村のうち最多の紙数を費やしている。


高松村
たかまつむら

[現在地名]上山市高松・三本松さんぼんまつ

上山城下の南、まえ川流域に位置し、上山盆地南西部に突出する山の東麓にあたる。天正二年(一五七四)の伊達輝宗日記(伊達家文書)五月一一日条に「天き上々、動ちんとり候、やく所わたし候、同ちん、おのおののちん、某も中山出候、たかまつまて放火候」とあり、最上義守・義光の抗争に際し伊達輝宗も出陣、伊達軍が当地に火を放っている。正保郷帳では田方九二五石余・畑方七四石余。元禄一一年(一六九八)の村明細帳(三浦文庫)では高一千二四石余、うち新田二四石余、反別は田五三町六反余・畑一七町余で、銭二貫四九〇文・薪六六駄が課された。家数四五のうち紙漉は一五で、村高のうち四六六石余をもっていた。

近世、当村では障子用大奉紙や帳簿用紙などを生産、上山藩は米沢藩の深山みやま(現西置賜郡白鷹町)、山形藩の双月そうつき(現山形市)、新庄藩の長沢ながさわ(現最上郡舟形町)のように、当地の手漉和紙作りを保護育成した。


高松村
たかまつむら

[現在地名]丹原町高松

周桑平野の南西部に位置し、東は久妙寺くみようじ村・今井いまい村・田野たの村に、南は田野村・長野ながの村に、西は関屋山せきややま村・河根かわね村・田滝たたき村に、北は河根村・久妙寺村に接する。高松川が村内を東北に流れ、田滝川・関屋川が村の西辺を北西から南東に流れる。村はこの扇状地上にあり、集落は山本やまもとはやし兼久かねさなど山麓に展開する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)周布しゆうふ郡の項に、高八六四石三斗一升三合とあり、「高松村 林山有」とみえる。元禄一三年(一七〇〇)の領分附伊予国村浦記にも同石高で「松平隠岐守知行 高松村」とあり、天保郷帳では八八八石八斗一升五合となっている。

山麓一帯に古墳文化遺跡があり、兼久の泉池いずみいけには中森なかもり外森そともりとよばれる古墳跡があり、土器片や鉄製直刀が発見され、林にも古墳があったという(田野村誌)


高松村
たかまつむら

[現在地名]大分市松原町まつばらまち一―二丁目・日吉町ひよしまち日岡ひおか一―二丁目・花高松はなたかまつ一―三丁目・原新町はるしんまち・高松一―二丁目・高松東たかまつひがし一―三丁目

はる川左岸に位置する。北は海、西は伊予(肥後)街道で萩原はぎわら村に通じ、東から南は山津やまづ村領と入組む。元和九年(一六二三)松平忠直領、寛永一五年(一六三八)中津留藩松平(大給)忠昭領となった(岡本家文書)。同一九年忠昭の館が当村に移され(「忠昭公留記」府内藩記録)、当時の村名小路口こうじぐち村により小路口屋敷とよばれた(三浦家文書など)。正保郷帳によると小路口村の田高一〇九石余・畑高八九石余、高田たかた庄に所属。高松藩時代の居館はかなりの工事が行われたと考えられ(同文書)、忠昭は中津留なかづる村から菩提所浄安じようあん寺、祈祷所福寿ふくじゆ院、花津留はなづる村から浄竜じようりゆう寺を移すなど、のちの高松町の基礎をつくった(「大分市史」など)


高松村
たかまつむら

[現在地名]足利市高松町

矢場やば川北岸の台地に位置し、対岸は上野国邑楽おうらうずら(現群馬県邑楽郡邑楽町)、北東は荒萩あらはぎ村。村名の由来は、素盞嗚尊東征のとき、高松連ら六名がこの地で殺傷され、葬られたという伝承によるという。現在の川島家宅地に残る川島氏館跡は鎌倉後期から南北朝期に造立されたもので、中心郭跡(堀の内)とそれを囲む堀の周りに外郭がある。その規模は東西・南北とも約二〇〇メートルと推定され、中世土豪川島氏の居館であったと考えられる。「足利長尾顕長家来」に当村の者として五十木大膳(永三〇貫文)の名がみえる。慶安郷帳に村名がみえ、旗本水野領、寛文元年(一六六一)上野館林藩領、天和二年(一六八二)旗本岩瀬・跡部・夏目・松平・神谷・佐野・内藤などの相給となる(分郷配当帳)


高松村
たかまつむら

[現在地名]湯沢市高松

雄物川の支流高松川に沿って集落が点在し、相川あいかわ村より小安おやす温泉(現雄勝おがち郡皆瀬村)に至る小道の中間に位置する。北は宇留院内うるいんない村、東は山道越えに川向かわむこう(現皆瀬村)、南は山越えに川井かわい(現雄勝郡雄勝町)と接する。村内の上地うわじには元亨二年(一三二二)、嘉暦二年(一三二七)の板碑がある。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図には三六二石とある。宝永二年(一七〇五)の雄勝郡村々御黒印高牒(秋田県庁蔵)では、高は本田四七一石四斗五升七合、新田二七一石六斗二升七合、計七四三石八升四合(当高六八一石一斗二升八合)


高松村
たかまつむら

[現在地名]上河内村高松

免之内めんのうち村の南西に位置する。梨木平なしのきだいらをはじめ山口やまぐち吹上ふきあげなど六ヵ所に縄文集落遺跡が確認されている。免之内寄りに高松城跡があるが規模は小さい。古くは高徳たかとく村と称したが、塩谷しおや郡高徳村(現藤原町)と紛らわしいため、正保元年(一六四四)高松村に改称した(「年貢割付状」古橋忠義文書)。慶長七年(一六〇二)村内八二石余が宇都宮大明神の朱印地となり、おおむね宇都宮藩領との二給で幕末に至る。慶安郷帳では藩領分は高四九一石余、田方三三四石余・畑方一五六石余、神領分は田方七三石余・畑方八石余。


高松村
たかまつむら

[現在地名]花巻市高松

高木たかき村の東、北西流するさるいし川の右岸に位置する。東南は和賀郡成島なるしま(現東和町)など。慶長八年(一六〇三)と考えられる北松斎信愛宛南部利直知行宛行状(宝翰類聚)には高松寺とみえ、同一五年の同人宛南部利直黒印状(盛岡北文書)には高松寺村高五八石余とある。正保国絵図では高二一八石余。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付には蔵入高六〇六石余とあり、七ヵ年平均の免は四ツ三分一厘六毛。


高松村
たかまつむら

[現在地名]川越町高松

朝明あさけ川の南岸河口付近にあり、東に枝郷の塚田つかだ、西方には豊田とよだ村。寛正四年(一四六三)卯月二一日の高松早水方の正久書状(氏経卿引付)には、

<資料は省略されています>

とあって、上分の納入を報じたあと、神宮より段銭停止の庁宣を出すことを要請している。それは「あまりに毎年反銭田役懸候間、公方様めいわく候間、如此令申候、(中略)以是京都にて御わひ(侘)事申上候、さためて御不ふ志よ(奉書)可成候」とあり、幕府より段銭免除の奉行人奉書を得るためのものであった。


高松村
たかまつむら

[現在地名]村松町高松

北はまる(二〇五・一メートル)、南は薬師やくし(二四一メートル)に囲まれた山間地にある。東は山を経て上大蒲原かみおおかんばら村、西は下土倉しもつちくら(現加茂市)、北はまき村。寛喜―天福(一二二九―三四)の頃、高松左衛門之丞豊勝という武将が薬師山に居住し、家臣の荒井兵庫に命じて開発したという(中蒲原郡誌)。丸山山頂付近から南側に堀切と腰曲輪がある。薬師山山頂から南の尾根筋に階段状の平地と堀切があるなど山城の遺構を残す。


高松村
たかまつむら

[現在地名]静岡市高松・高松一―二丁目・敷地しきじ一―二丁目・宮竹みやたけ一―二丁目・登呂とろ一―五丁目・有東うとう三丁目

下島しもじま村の東に位置し、南は駿河湾に面する。東端を大谷おおや川が南流している。中世は高松郷と称された。敷地村・宮竹村を分村したとの説があり(駿河記)、両村とともに高松三ヶ村と称された。検地帳・年貢割付帳および郷帳類などでは高松三ヶ村として扱われ、用水・田畑も相互に入組んでいた(敷地区有文書)


高松村
たかまつむら

[現在地名]堺市高松・大美野おおみの

原寺はらでら村の南に位置し、西は草尾くさお新田に接する。河内国丹南郡に属する。中世は高松庄の地で、安元二年(一一七六)二月日の八条院領目録(内閣文庫蔵山科家古文書)に「蓮華心院御庄」として「河内国高松」とある。

慶長一七年(一六一二)水割符帳(田中篤家文書)によると、狭山さやま(現南河内郡狭山町)大樋筋から取水、水懸高二五〇石。正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳による高二四二石余、ほかに山年貢高二・四八九石。元文二年(一七三七)の河内国高帳によると高三三九石余で、以降変化はない。元和九年(一六二三)丹南藩高木領となったが、元禄中期大野芝おおのしばの新田開発に際し、一時幕府代官支配地となった(享保一八年「草尾新田由来并年々聞書」児山家文書)


高松村
たかまつむら

[現在地名]富里町高松

中沢なかざわ村の南東に位置。高崎たかさき川沿いに延びる谷津の最深部を占める。天正一八年(一五九〇)一〇月の松平伊昌知行書立に高松郷とみえ、伊昌の知行地二千石のうちとなっている。寛文四年(一六六四)当時は高岡藩領・佐倉藩領の相給(寛文朱印留)。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分によれば高九二石余で佐倉藩領。その後新田開発が行われ、天保郷帳・旧高旧領取調帳とも高一〇八石余。寛延二年(一七四九)の佐倉藩領村高覚では夫役永二七八文余・栗代永二七文・野銭一貫一六七文・山銭鐚一六四文。


高松村
たかまつむら

[現在地名]東伯町浦安うらやす

金市かないち村の南に位置する。拝領高は二二四石余、本免は五ツ二分。竹運上銀二五匁を課されていた(藩史)。幕末の六郡郷村生高竈付によれば生高二五一石余、竈数二〇。文久二年(一八六二)の八橋郡村々諸事書上帳(峰地家文書)では家数一九・人数九一、元治二年(一八六五)の八橋郡村々余業取調帳(河本家文書)では家数二〇で、うち余業六(鍛冶屋二、水車・紺屋・木綿買棒・綿打各一)。享保六年(一七二一)と元文元年(一七三六)から五年にかけて勘三郎が宗旨庄屋を勤めている(在方諸事控)


高松村
たかまつむら

[現在地名]境港市高松町

竹内たけのうち村の南に位置する。同村の枝村であったが(伯耆志)、享和三年(一八〇三)に新田として幕府に届出、明治二年(一八六九)に領内限りで分村した(藩史)。文政年中(一八一八―三〇)の会見郡全図の写(県立図書館蔵)に村名が記されており、幕末の六郡郷村生高竈付にも竹内村の次に記載があるが、村高の記載はない。旧高旧領取調帳によると高七一石余。「共武政表」によると明治一二年の家数一〇八・人数五一三(うち男二六二)、牛七・船一一がある。村域の東端は美保みほ湾に沿い、集落を南北に貫通して外浜境そとはまさかい往来となだ道が通る。


高松村
たかまつむら

[現在地名]犬飼町大寒おおそう 高松

戸上とのうえ村の南、大野川東岸の河岸段丘上にあり、南西で三重みえ川が大野川に合流する。江戸時代を通じ臼杵藩領。慶長二年(一五九七)の野津院検地帳写(渡辺家文書)には高村が戸上村など四ヵ村分と一括された一冊が含まれ、村位は中。同一一年の惣御高頭御帳には高松村とみえ、鍋田村組に属し高一二四石余。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によれば田方三一石余・畑方九二石余、日損所と注記される。


高松村
たかまつむら

[現在地名]鳴瀬町高松

鳴瀬川の左岸、新田につた村の南東、現小野おの橋の上流約一キロに位置し、丘陵の谷間に東西に延びる。涌谷わくや街道に沿う。村名の由来は小字要害屋敷ようがいやしきの孫助の家にあった神明社境内に高い松があったことによるという。正保郷帳に村名がみえ、田一八貫七三三文・畑二貫五七文で柴山と注される。天保七年(一八三六)の知行割目録(富田家文書)によると田一八貫七五八文・畑二貫三三三文、うち蔵入九二一文で、ほとんどは小野本郷在住の富田氏の所領であった。


高松村
たかまつむら

[現在地名]赤羽根町高松

田原たはら町の大草おおくさ大久保おおくぼと境を接する。天保三年(一八三二)の「地方秘録」によれば、田は六七町七畝余、畑は八三町二反六畝余で、米郷倉一(二間半に四間)、網数四七帖、舟数四八艘とある。古くよりの農漁村であったが、現在は漁業が不振となり、暖地蔬菜・温室栽培に転換している。


高松村
たかまつむら

[現在地名]串間市高松

西方にしかた村海岸部の西に位置し、志布志しぶし街道が通る。永禄一一年(一五六八)飫肥おび(現日南市)城主島津忠親と伊東義祐の争いに関すると推定される某書状(肝付文書)に「十日之日打立、従早晩急候而、夏井を明通、於飯田・高松夜作られへく候」とみえる。江戸時代には西方郷に所属。高鍋藩人給帳に高松口御番衆として二―三石の知行を寛永一五年(一六三八)に与えられた八名が載る。


高松村
たかまつむら

[現在地名]一宮市萩原はぎわら高松たかまつ

高木たかぎ村の西、村の西は用水通となっている。「寛文覚書」には、概高八七石余、家数一七・人数七七とあり、「徇行記」によれば、三人の給知によって占められている。また、村柄は「小村ナリ、高ニ準シテハ戸口多ク耕田不足ナルガユヘニ、滝・高木・串作・築込・中島・西御堂・萩原・西島八ケ村ノ田畝ヲ承佃スト也、竹木茂リ小百姓バカリ也、村落ノ所ハ地高ナリ、郷東南ノ方、田畝地低クニテ一町三反余ノ所、水損アリ、是ハ水潦、光堂川新堀ノ方ヘ落ルナリ、土地ハマツチ砂交リ也」と記す。


高松村
たかまつむら

[現在地名]松本市島内 高松

天正検地の頃までは犬飼いぬかい郷に属していたが、寛永一九年(一六四二)の信州松本御領分村々高附帳に初めて六〇三石二斗五升と高付けされている。「信府統記」に「御朱印高五百六拾六石二斗二升九合」とあり、享保九年(一七二四)には六三六石五升五合と増加している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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