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石橋和義 いしばし かずよし

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

石橋和義 いしばし-かずよし

?-? 南北朝時代の武将。
一族足利尊氏の後醍醐(ごだいご)天皇に対する挙兵に応じ,尊氏の西への敗走に際して備前(岡山県)三石(みついし)城で新田義貞らの追撃にそなえる。観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)では足利直義(ただよし)にくみするが,のち尊氏に帰順。文和(ぶんな)2=正平(しょうへい)8年(1353)赤松則祐(のりすけ)とともに南朝方に占拠された京都を奪回した。のち若狭(わかさ)の守護。初名は氏義。号は尾張三郎。

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朝日日本歴史人物事典の解説

石橋和義

生年:生没年不詳
南北朝時代の武将。義博の子。初名氏義。左衛門佐,三河守,左近将監,従四位下。尾張三郎と号す。足利氏一族斯波家氏の曾孫で,この和義のときから石橋氏を名乗った。足利尊氏による反後醍醐天皇の挙兵に従軍,建武3/延元1(1336)年尊氏の西走に際して,室ノ津の軍議で備前の大将として東上への備えを命じられ,尊氏の上洛に際しては山陽の兵を率いて畿内に転戦,翌4年伯耆国守護,暦応2/延元4(1339)年には備後国守護に補任されている。評定衆,頭人として足利直義と浅からぬ関係を持っていたが,観応の擾乱では,最初直義方についたものの,観応2/正平6(1351)年の第2次分裂の際,7月直義の一党が北国に向けて出奔したときは京に残留している。のち尊氏方に降り,備前,備後にかけて各地に転戦,文和2/正平8(1353)年南朝方の楠木正儀,石塔頼房らが京都を占拠したときは,幕府軍の将として赤松則祐と協力して東上し,京都を奪還した。その後,康安1/正平16(1361)年から貞治2/正平18(1363)年まで若狭国守護となり,半済令を実施している。子孫の系譜,所領などは詳らかではないが,吉良,渋川,一色,上杉諸氏らと共に足利将軍の一門(御一家衆)として特別の待遇を受けている。法号は心勝。<参考文献>佐藤進一『南北朝の内乱

(伊藤清郎)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

いしばしかずよし【石橋和義】

南北朝時代の武将。生没年不詳。初名氏義。左近将監,三河守,左衛門佐。法名心勝。足利家氏の曾孫。足利尊氏の挙兵に従い,1336年(延元1∥建武3)備前に分遣された。伯耆,備後,若狭守護を歴任するとともに,引付頭人,評定衆として幕政に参与。62年(正平17∥貞治1)斯波高経と対立して失脚するが,70年(建徳1∥応安3)までに奥州に下り,陸奥国大将の嫡子棟義を後見して81年(弘和1∥永徳1)ころまで活動した。

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