朝日日本歴史人物事典 「石橋和義」の解説
石橋和義
南北朝時代の武将。義博の子。初名氏義。左衛門佐,三河守,左近将監,従四位下。尾張三郎と号す。足利氏一族斯波家氏の曾孫で,この和義のときから石橋氏を名乗った。足利尊氏による反後醍醐天皇の挙兵に従軍,建武3/延元1(1336)年尊氏の西走に際して,室ノ津の軍議で備前の大将として東上への備えを命じられ,尊氏の上洛に際しては山陽の兵を率いて畿内に転戦,翌4年伯耆国守護,暦応2/延元4(1339)年には備後国守護に補任されている。評定衆,頭人として足利直義と浅からぬ関係を持っていたが,観応の擾乱では,最初直義方についたものの,観応2/正平6(1351)年の第2次分裂の際,7月直義の一党が北国に向けて出奔したときは京に残留している。のち尊氏方に降り,備前,備後にかけて各地に転戦,文和2/正平8(1353)年南朝方の楠木正儀,石塔頼房らが京都を占拠したときは,幕府軍の将として赤松則祐と協力して東上し,京都を奪還した。その後,康安1/正平16(1361)年から貞治2/正平18(1363)年まで若狭国守護となり,半済令を実施している。子孫の系譜,所領などは詳らかではないが,吉良,渋川,一色,上杉諸氏らと共に足利将軍の一門(御一家衆)として特別の待遇を受けている。法号は心勝。<参考文献>佐藤進一『南北朝の内乱』
(伊藤清郎)
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