石橋政嗣(読み)いしばしまさし

日本大百科全書(ニッポニカ) 「石橋政嗣」の意味・わかりやすい解説

石橋政嗣
いしばしまさし
(1924―2019)

政治家。台湾生まれ。台北経済専門学校、熊本予備士官学校卒業。全駐労佐世保支部書記長、長崎県労評議長、長崎県議を経て1955年(昭和30)総選挙で左派社会党から当選、以後連続当選。社会党では勝間田(かつまた)派に属す。おもに外交・防衛畑を歩き、60年安保では「安保五人男」の一人として活躍。党外交防衛委員長、総務局長、国際局長を経て、1970年から7年間書記長として成田知巳(ともみ)委員長とコンビを組む。この間1966年に自衛隊漸減に関する「石橋構想」を発表。1982年副委員長に就任、党の機構改革案をまとめたが同年12月辞任。1983年第9代委員長に就任、社会党初の労組出身の委員長となる。1986年辞任、1990年引退。イデオロギーより現実を重視するタイプであった。著書に『非武装中立論』がある。

伊藤 悟]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「石橋政嗣」の意味・わかりやすい解説

石橋政嗣
いしばしまさし

[生]1924.10.6. 台北
政治家。 1944年台北経済専門学校卒業。兵役から復員後,進駐軍労働者となり,47年日本進駐軍要員労働組合の佐世保支部書記長。 53年,長崎県労働組合評議会議長となる。 55年左派社会党の衆議院議員に当選。外交,防衛問題の政策通として頭角を現し,党外交防衛政策委員長となり,66年自衛隊漸減に関する「石橋構想」を発表した。国会でも安保問題を中心に予算委員会の花形論客となった。党の総務局長,国際局長を経て,70年,成田委員長のもとで党書記長に就任。 77年 12月,成田執行部退陣に際し書記長を辞任。 82年党副委員長。党内では和田博雄勝間田清一系列に属し,現実主義者であるが左派ともよく,左右両勢力の調整者をもって自任した。 83~86年党委員長。 87~92年憲法擁護国民連合議長。 90年衆議院議員を退任

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「石橋政嗣」の解説

石橋政嗣 いしばし-まさし

1924- 昭和時代後期の政治家。
大正13年10月6日台湾生まれ。全駐労佐世保支部委員長,長崎県議をへて,昭和30年30歳で最年少の衆議院議員(当選12回,社会党)となる。35年の安保国会で活躍し,45年書記長,58年委員長。61年西欧型社会民主主義への路線転換をはかった。平成2年引退。台北経専卒。著作に「非武装中立論」。

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世界大百科事典(旧版)内の石橋政嗣の言及

【日本社会党】より

…80年1月,党は前年の総選挙で進出した中道に接近し,共産党を除外する政権構想を採択して社公民路線に踏み切り,2月の第44回大会では〈道〉の見直しを決定したが,党内左右両派の対立は解消せず,飛鳥田一雄委員長の提唱した〈百万党建設〉も進展しなかった。83年9月の第48回大会で委員長に就任した石橋政嗣は〈ニュー社会党〉への脱皮を呼びかけ,自衛隊の違憲・合法論を展開して路線転換を図り,86年1月の第50回続開大会で難産のすえに〈新宣言〉を採択し西欧型社会民主主義路線へと転換した。その結果マルクス主義的性格を持つ〈道〉は歴史的文書として棚上げになった。…

※「石橋政嗣」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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