日本大百科全書(ニッポニカ) 「非武装中立論」の意味・わかりやすい解説
非武装中立論
ひぶそうちゅうりつろん
憲法の前文および第9条の非武装平和主義を根拠として日本の再軍備・日米安全保障条約に反対し、米ソ両陣営ともいかなる軍事的関係をもたず、第三勢力を軸とした非同盟中立を唱える立場。非武装中立論は1952年(昭和27)の対日講和条約の締結を前に、社会党、知識人、新聞などの全面講和を望む動きのなかから提唱された。当時、講和独立後の日本の安全をどういう形で確保するのかが一つの焦点となっていた。安倍能成(あべよししげ)、中野好夫(なかのよしお)ら知識人が集う平和問題談話会は1950年1月「講和問題について」と題する全面講和・中立不可侵・軍事基地提供反対の声明を発表し(『世界』1950年3月号)、社会党も同年4月の第6回党大会でいわゆる「平和三原則」の一つとして中立的立場を確認し、朝鮮戦争勃発(ぼっぱつ)後の7月の第2回中央委員会で非武装中立を決定した。
非武装中立論は、吉田茂首相が推進した日米安全保障条約による米軍基地提供が米ソ対立を激化させるとの認識にたって軍事的同盟による安全保障に反対し、非同盟主義による緊張緩和を目標とするものであった。その思想的根拠は憲法の平和主義にあったが、核兵器の出現によってもはや軍事力を背景とした安全保障が意味をもたなくなった現実をも踏まえていた。とくに日本が唯一の原爆被災国であったことが非武装中立論を支える精神的基盤となった。この立場は、すべての国と非軍事的、非同盟主義的友好関係を樹立することによって日本の安全を確保しようとするものであるが、反面、国連加盟による国連集団保障論と結び付いているところに特徴があった。
その後、非武装中立論は変質しつつ、近年ではその役割を終えたとする主張もある。すなわち、同論を冷戦体制下の政策として強調してきた論調がそれである。1959年(昭和34)、社会党は「積極中立」構想を打ち出して以降、「日本の平和と安全を保障する道(非武装中立構想・石橋政嗣(いしばしまさし)案、1966)」「非武装・中立への道」(1968年12月)を経て、1969年の第32回臨時党大会で「日米安保体制の打破、自衛隊の縮減改組、平和中立の達成、非武装不戦国家の実現」を決定確認した。これは同党の1970年代までの対外政策の基本方針となっていたが、以後、非核を安全保障政策の中心に据えつつも、現実路線に転換していく。1983年、石橋委員長は自衛隊の「違憲合法論」を唱え、1989年(平成1)9月、土井たか子委員長は「日米安保条約の継続」を認め(「土井構想」)、さらに1990年に党内から日本の周辺防衛に限定した自衛隊「合憲」論が台頭してくる。1991年の湾岸戦争、ソ連消滅以後、自衛隊の国連平和維持活動(PKO)参加と東西関係の変化などで現実的対応を迫られ、1993年の非自民連立内閣への政権参加後、村山富市首相は党内論議を経ないで、①「自衛隊合憲」、②日米安保条約の堅持、③非武装中立の政策的な終焉(しゅうえん)などを表明して従来の方針を大転換した。非武装中立論を東西冷戦体制下の「政策」ととらえてきた論調の結末である。
非武装中立論の基本精神・理念が、非軍事、非同盟、非核にあるところからすると、冷戦体制の崩壊、東西関係の変化にかかわりなく、自衛隊と日米安保条約の存立は問題視され続けることになろう。
[荒 敬]
『石橋政嗣著『非武装中立論』(1980・日本社会党中央本部機関紙局)』