石田幹之助(読み)イシダ ミキノスケ

20世紀日本人名事典 「石田幹之助」の解説

石田 幹之助
イシダ ミキノスケ

大正・昭和期の東洋史学者 国学院大学教授;日本大学教授;東方学会会長。



生年
明治24(1891)年12月28日

没年
昭和49(1974)年5月25日

出生地
千葉県千葉市

学歴〔年〕
東京帝大文科大学史学科〔大正5年〕卒

学位〔年〕
文学博士(日本大学)〔昭和34年〕

主な受賞名〔年〕
フランス政府アカデミー勲章〔昭和35年〕,紫綬褒章〔昭和39年〕

経歴
大正5年東京帝大卒業後、中国に留学。留学中、東洋学関係の文献蒐集家モリソンを知り、その日本誘致を行ない(岩崎家が購入)、その文献整理に当って、モリソン文庫(現・東洋文庫)の基礎を築く。6年〜昭和9年同文庫主事。傍ら日大教授、国学院大学教授を歴任。20年東方学会設立にあたって理事となり、機関誌「東方学」の編集に従事した。48年同学会会長。著書に「長安の春」(昭16)をはじめ、「欧人の支那研究」「南海に関する支那史料」「唐史叢鈔」「東亜文化史叢考」、「石田幹之助著作集」(六興出版)などがある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「石田幹之助」の意味・わかりやすい解説

石田幹之助
いしだみきのすけ

[生]1891.12.28. 千葉
[没]1974.5.25. 東京
東洋史学者。 1916年東京大学文科大学史学科を卒業。 1917年,袁世凱黎元洪の政治顧問オーストラリア人 G.E.モリソン蔵書を岩崎久弥男爵が買い取ったとき,その受け取りにあたり,モリソン文庫主任となった。 1924年モリソン文庫が財団法人東洋文庫となるとその主事となり,1934年までその職にあった。 1942年より國學院大學教授,1946~62年日本大学教授。東西交渉史,唐代文化史の大家として名高く,著書には『欧人の支那研究』 (1932) ,『長安の春』 (1941) ,『欧米に於ける支那研究』 (1942) ,『南海に関する支那史料』 (1945) ,『唐史叢鈔』 (1948) ,『東亜文化史叢考』 (1973) がある。杜村と号した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「石田幹之助」の解説

石田幹之助 いしだ-みきのすけ

1891-1974 大正-昭和時代の東洋史学者。
明治24年12月28日生まれ。大正6年設立のモリソン文庫(現東洋文庫)の運営につくす。国学院大,日大の教授。43年学士院会員。アジア史,東西交渉史研究に先駆的業績をのこした。昭和49年5月25日死去。82歳。千葉県出身。東京帝大卒。著作に「長安の春」「東亜文化史叢考」など。

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367日誕生日大事典 「石田幹之助」の解説

石田 幹之助 (いしだ みきのすけ)

生年月日:1891年12月28日
大正時代;昭和時代の東洋史学者。国学院大学教授;日本大学教授
1974年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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