日本大百科全書(ニッポニカ) 「モリソン」の意味・わかりやすい解説
モリソン(Van Morrison)
もりそん
Van Morrison
(1945― )
イギリスのミュージシャン。ブルースやリズム・アンド・ブルース、ソウル・ミュージック、ジャズなどを完全に消化したまったく独自の唱法により、非黒人としては最高のソウル・シンガーの一人という不動の評価を1960年代から維持してきた。
ベルファスト生まれ。母親はブルース、ジャズ・シンガー、父親はジャズやブルースのレコードのコレクターとして地元でも有名であった。そんな家庭環境もあって幼少時から音楽に夢中になり、ギターやサックスなどをマスター、14歳で学校をやめて地元のバンド、モナークスに加入し、本格的にプロ・ミュージシャンとしてスタートする。そして1963年にゼムを結成し、イギリスのデッカ・レコードと契約を結ぶ。ロンドンに拠点を移して、1965年にデビュー・アルバム『ゼム』を発表。リズム・アンド・ブルースやソウル・ミュージックを基調としたビート・バンドとして一躍注目を集めた。しかし、メンバー交替が激しくバンドのとしての一体感がなかなか持続しなかったため、1966年のセカンド・アルバム『ゼム・アゲイン』を発表してまもなく、モリソンはゼムを脱退、以後ソロ・アーティストへと転じる。
ゼムのプロデューサーであったバート・バーンズBert Berns(1929―1967)の招きでアメリカに渡ったモリソンは、バーンズが設立したバング・レーベルから、1967年にソロ・デビュー・アルバム『ブロウイン・ユア・マインド』を発表、そこからのシングル・カット曲「ブラウン・アイド・ガール」を大ヒットさせた後、ワーナーへ移籍し、いよいよ本格的にソロ・キャリアを積んでいくことになる。その第一弾として、ジャズ・ベーシストのリチャード・デービスRichard Davis(1930―2023)やモダン・ジャズ・カルテットのドラマー、コニー・ケイConnie Kay(1927―1994)など、おもにジャズ畑のミュージシャンたちをバックにして、ほとんど一度の録音でつくられたアルバム『アストラル・ウィークス』(1968)は、軽やかなアンサンブルとモリソンのソウルフルなボーカルが臨機応変に絡み合った歴史的傑作として長く聴き継がれている。
以後も『ムーンダンス』(1970)や『テュペロ・ハニー』(1971)などの傑作を次々と発表したが、彼の表現は、黒人音楽を完全に消化したブルーアイド・ソウル(白人によるソウル・ミュージック)というだけでなく、自身のアイデンティティをどこまでも深く探求していこうとするスピリチュアルな旅でもあった。とりわけ、ケルト人としてのアイデンティティに対する意識は作品に反映され、1974年の『ヴィードン・フリース』あたりから徐々に表面化し、1980年の『コモン・ワン』以降さらに強まり、アイリッシュ・トラッド・バンドのチーフタンズと組んだ1988年の『アイリッシュ・ハートビート』で頂点に達した。その後もモリソンの歌は、リズム・アンド・ブルースともソウル・ミュージックともジャズともロックともフォークともつかない不思議な振幅をもつ一種の聖歌として、多くの人を魅了し続ける。
[松山晋也]
『ジョニー・ローガン著、丸山京子訳『ヴァン・モリソン 魂の道のり』(1994・大栄出版)』
モリソン(Robert Morrison)
もりそん
Robert Morrison
(1782―1834)
中国本土最初のプロテスタント伝道者。イギリス人。中国名は馬礼遜。ロンドン伝道協会The London Missionary Society所属。1807年マカオ着。中国は当時キリスト教禁制下にあったため、東インド会社の中国語通訳やイギリス商務館の主席通訳官などをして伝道経費を補う。1816年イギリスの通商使節アマーストの北京(ペキン)での外交交渉にも通訳として同行した。広東(カントン)などでの伝道25年で得た受洗者わずかに10名といわれるが、『新約聖書』の中国語訳を刊行(1813)、ミルンWilliam Milne(1785―1822。中国名は米憐)と分担で『旧約聖書』を翻訳、『神天聖書』(中国語訳新旧約聖書全巻)を完成したこと(1823)、『中国語辞典』A Dictionary of the Chineseの刊行(1822)、また、ミルンと協同でマラッカに将来の中国伝道のために英中学院Anglo-Chinese College を創設したこと(1818)などから、プロテスタントの中国伝道の礎石を築いたとされている。
[冨倉光雄 2018年2月16日]
モリソン(Herbert Stanley Morrison)
もりそん
Herbert Stanley Morrison
(1888―1965)
イギリスの政治家。14歳のときから店員などをして働きながらロンドンの労働党で活動、1923年労働党下院議員となった。1929年マクドナルド内閣の運輸相に就任、1935年には党首の座をねらったがアトリーに敗れた。第二次世界大戦中、供給相、内相を歴任。戦後はアトリー内閣の副首相兼枢密院議長を務め、1951年には短期間ながら外相となった。
[木畑洋一]