赤坂郡(読み)あかさかぐん

日本歴史地名大系 「赤坂郡」の解説

赤坂郡
あかさかぐん

和名抄」東急本(国郡部)刊本は「安加佐加」と訓を記す。近代の訓も「アカサカ」(内務省地理局編纂「地名索引」)。「和名抄」によればすさい宅美たくみ軽部かるべ高月たかつき鳥取ととり葛木かつらぎ六郷からなり、令制の区分では下郡にあたる。「延喜式」神名帳にはかも(三座)宗形むなかた石上布都魂いそのかみふつみたま布勢ふせの四社六座の式内社が記されている。古代には東は磐梨いわなし郡、南は上道郡、一部御野みの郡と、西は津高つだか郡、北は美作国勝田かつた郡・久米くめ郡に接していた。ほぼ現在の赤磐あかいわ山陽さんよう町・赤坂町の全域、同郡吉井町の大部分、御津みつ御津町の一部にあたる。

〔古代〕

当郡はかつては備前国東辺の広大な地域を郡域としていたが、八世紀代に入ってしだいに郡域を縮小させた郡である。「続日本紀」養老五年(七二一)四月二〇日条に、当郡と邑久おく郡の郷を割いて藤原ふじわら郡を新立したとある。当郡から割かれた郷名は明らかでないが、邑久郡から割かれた郷が海岸沿いの地域とみられること、天平神護二年(七六六)段階で藤野ふじの(藤原郡に同じ)三郷からなる小郡であったことからすると、のちの坂長さかなが藤野二郷であった可能性が強い(→和気郡。さらに「続日本紀」天平神護二年五月二三日条では、邑久郡・上道郡の四郷とともに当郡の佐伯さえき珂磨かま二郷が藤野郡に割かれている。これら四郷を含む養老五年以前の当郡の郡域は、令制下の官道である山陽道沿いに、陸路で播磨国に接する広大な地域を占めていたことになる。

一般に律令制下の郡は単なる行政区画ではなく、その地域に本拠を置く有力首長が形成した支配領域としての歴史的世界でもあった。養老五年以前の広大な領域を支配した首長勢力としてどのような氏族を想定しうるであろうか。この場合、旧郡域が山陽道沿いの吉備地域の東辺部に位置することに注目する必要がある。古代において、それぞれの地域的世界のうち畿内に近い位置にある地域をかみ、遠い地域をしもと称することがしばしばであった。この点からすると古代吉備の有力氏に上道氏・下道氏のあることが想起される。下道氏の本拠は備中地域で、かつての赤坂郡域を支配したのは上道氏とみることができよう。このことに関連して注目されるのは、当郡の西南部の高月郷域に推定される地域の豊富な遺跡群である。とくに両宮山りようぐうざん古墳(県下第三位の規模、全長約一九〇メートルの前方後円墳で周湟をもつ)と、それをとりまくように立地する朱千駄しゆせんだ古墳(全長約六〇メートル)小山こやま古墳(全長約五三メートル)西森山にしもりやま古墳(全長約八〇メートル)などの中期の古墳群の存在は、この時期の旧赤坂郡内の古墳のあり方のなかで突出した様相を示すものである。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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