神浦村(読み)こうのうらむら

日本歴史地名大系 「神浦村」の解説

神浦村
こうのうらむら

[現在地名]外海町神浦上大中尾郷こうのうらかみおおなかおごう神浦扇山郷こうのうらおうぎやまごう神浦下大中尾郷こうのうらしもおおなかおごう神浦北大中尾郷こうのうらきたおおなかおごう神浦丸尾郷こうのうらまるおごう神浦江川郷こうのうらえがわごう神浦上道徳郷こうのうらかみどうとくごう神浦下道徳郷こうのうらしもどうとくごう神浦口福郷こうのうらくちぶくごう神浦向郷こうのうらむかいごう神浦夏井郷こうのうらなついごう神浦上大野郷こうのうらかみおおのごう神浦下大野郷こうのうらしもおおのごう神浦池島郷こうのうらいけしまごう

現外海町域の北部一帯を占め、西部は外海(角力灘)に臨む。神浦川が西流する。海沿いの往還筋に一里山が置かれていた(慶安二年肥前国道法帳)。神功皇后が立寄ったことから神浦の地名が生れたという所伝がある。天正一五年(一五八七)豊臣秀吉によるバテレン追放令に伴い神浦教会は破却されたが、一五九二年(文禄元年)には長崎・神浦Conuvaなど四ヵ所の布教機関(カーザ、レジデンシアなど)で教会四四ヵ所・信徒三万人余を管轄していたという。当地のレジデンシアにはジュリオ・ピアニ神父と日本人イルマンの定松がいた(シュッテ「日本歴史史料集」I)。また一五九四年には大村の日本語学校を立退いた数人のパードレが六ヵ月間にわたって神浦レジデンシアに逗留した(外海町誌)。中世以来の神浦氏は文禄元年九代正房が朝鮮半島への出兵に応じなかったため平戸に蟄居を命じられ、のち福江藩に仕えて三〇〇石の知行を許されたが、弟の正高のとき彼杵そのき(現東彼杵町)内に知行を移され、当地との結び付きは断たれた。一一代正通のとき郷内に一揆が起きたのを契機に元和元年(一六一五)当村内に六七石余の知行を得ている(「大村郷村記」など)。同氏はのちキリシタンとなるが、寛永七年(一六三〇)九月永田ながた黒崎くろさき出津しついけ島などの一一人が火刑・斬首に処されている(パジェス「日本切支丹宗門史」)。また南西部の大野おおののキリシタンは慶長四年(一五九九)平戸の領主が松浦鎮信に替わって弾圧が強まった際、生月いきつき(現生月町)から逃れてきた者ともいう。また肥後国からの落人らもいたという。

江戸時代は大村領の外海に属する。慶長一〇年の大村領内高目録に神浦村とみえ、高二〇六石余で、田一二町余・畠一〇町九反、物成一一三石余。同一七年の総検地では高二四九石余と打出され(同一八年彼杵郡内検高目録)、朱印高も同高とされた(元和三年「大村純頼領知目録」大村家記)


神浦村
こうのうらむら

[現在地名]宇久町神浦郷こうのうらごう

宇久島の南部に位置する。西部に狭い入江、東に永手ながて崎がある。文治三年(一一八七)小値賀おぢか前方まえがた(現小値賀町)の沖の神島こうじま宮の分霊を当地のみずヶ浦に祀り、国光の太刀を奉納したと伝え、神浦の名の由来とする。応永二〇年(一四一三)五月一〇日の宇久浦中一揆契諾状案(青方文書)に「おにつか入道」の融金、「おにつかふんこ」の和などがみえ、当地を拠点とする者が一揆に加わっている。一五世紀から和泉佐野さの(現大阪府泉佐野市)の漁師らの基地になったとされる。江戸時代は初め福江藩領で宇久島掛に属し、宇久島中(宇久島村)のうち。寛文元年(一六六一)富江分知領目録に「神ノ浦村」とみえ、高四〇一石余・取箇米四〇一石余で、同年富江五島領となっているが、同二年の境分けに際して落高一〇三石余が発覚したため飯良いいら村内から代地を割いて高五〇四石余とした(五島編年史)


神浦村
こうのうらむら

[現在地名]中島町こううら

忽那くつな(現中島)の西南部に位置し、東は宮野みやの村に接する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)風早かざはや郡の項に「神浦 日損所、松林有」とみえ、村高二二五石五斗五升六合、うち田一五四石二斗七升一合、畑七一石二斗八升五合とある。元禄年間(一六八八―一七〇四)には「神野浦」とも記した。

南北朝時代忽那島を支配した忽那氏のうち最も強盛であったのが神浦館(通称オバの地)忽那義範であった。義範は忽那氏本家の重清の弟で、重清没後は忽那一族を南朝方に統合、懐良親王を援助して河野通盛らと戦った。


神浦村
こうのうらむら

[現在地名]池田町神浦

三都みと半島の南西部に位置し、南のくずれ鼻、北の長者ちようじや鼻によって小湾が形成され、湾内南に突き出した権現ごんげん崎により格好の漁港となっている。近世池田郷の枝村。延宝七年(一六七九)の検地では高五八石一斗余・反別一一町二反余(「延宝検地帳」池田町役場蔵)。宝暦明細帳では高七一石余・反別一四町九反余(田八反余・畑一四町余)、家数七五・人数三四五、牛二九、塩浜反別三反余・塩浜役三〇俵、船数四四(五〇―八石積)。長者鼻の一〇町歩の山林は幕府御料林であった。延宝五年の網廻船運上積帳(足守木下家文書)に鰯網・いかなご網各一帖が記されている。


神浦村
こうのうらむら

[現在地名]東和町大字神浦

南は和佐わさ、西はもり、東は内入うちのにゆうの各村と接し、北は海に面し、北東にうか(現橘町)を望む。

慶長一五年(一六一〇)検地帳に「神浦・内入」と合わせて石高が記され、「地下上申」で初めて「神浦村」となる。村名について同書は「当村之儀浦中カニ疫神・新宮大明神、同沖ニ弁財天一社、以上三社往古より御座候ニ付、神浦と名付候由申伝候」と記す。

慶長一五年の検地帳によれば神浦・内入合わせて総田畠面積は一三町八畝余、総石高一七三石五斗余。


神浦村
かんのうらむら

[現在地名]藤代町神浦

小貝こかい川北岸に所在。東は大留おおどめ村。相馬二万石の一部で、「寛文朱印留」に下総佐倉藩領として村名がみえる。寛政二年(一七九〇)の地頭性名村高控帳(国立史料館蔵飯田家文書)によれば天領で、村高四四九・七三一石。嘉永三年(一八五〇)の岡堰三拾弐ケ村組合田畑反別控帳(同文書)では田二四町余、畑二一町余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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