日本歴史地名大系 「神浦村」の解説
神浦村
こうのうらむら
現外海町域の北部一帯を占め、西部は外海(角力灘)に臨む。神浦川が西流する。海沿いの往還筋に一里山が置かれていた(慶安二年肥前国道法帳)。神功皇后が立寄ったことから神浦の地名が生れたという所伝がある。天正一五年(一五八七)の豊臣秀吉によるバテレン追放令に伴い神浦教会は破却されたが、一五九二年(文禄元年)には長崎・神浦
江戸時代は大村領の外海に属する。慶長一〇年の大村領内高目録に神浦村とみえ、高二〇六石余で、田一二町余・畠一〇町九反、物成一一三石余。同一七年の総検地では高二四九石余と打出され(同一八年彼杵郡内検高目録)、朱印高も同高とされた(元和三年「大村純頼領知目録」大村家記)。
神浦村
こうのうらむら
宇久島の南部に位置する。西部に狭い入江、東に
神浦村
こうのうらむら
神浦村
こうのうらむら
神浦村
こうのうらむら
神浦村
かんのうらむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報