忽那氏(読み)くつなうじ

改訂新版 世界大百科事典 「忽那氏」の意味・わかりやすい解説

忽那氏 (くつなうじ)

瀬戸内海伊予忽那諸島本拠とする中世の武家。1184年(元暦1)藤原道長の裔親賢の忽那島配流より起こるという。その曾孫俊平は忽那島を長講堂領となし,〈忽那長者〉を称す。鎌倉時代は代々忽那島地頭職を保ったが,一族内の所領争い,荘園領主との紛争が漸次激化した。1333年(元弘3)初め忽那重義は後醍醐天皇方として,伊予の幕軍と戦い活躍南北朝期には嫡流重清が北朝方,その弟義範が南朝方と一族分裂して相争ったが,義範は瀬戸内海を扼(やく)す,いわゆる忽那七島根拠地とする強力な海上勢力を築き,一時は南朝の懐良(かねよし)親王を迎えるほど勢威をふるって忽那氏の最盛期を現出した。しかし義範の没後一族は衰微し,重清の子孫が伊予守護河野氏服属してようやく家運を保つに至る。1585年(天正13)河野氏が豊臣秀吉招請に応じなかったため秀吉麾下(きか)の小早川隆景の攻撃をうけ,忽那氏もともに滅亡した。
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百科事典マイペディア 「忽那氏」の意味・わかりやすい解説

忽那氏【くつなうじ】

瀬戸内海西部,伊予(いよ)忽那諸島(愛媛県松山市)を本拠とする土豪長講堂(ちょうこうどう)領忽那島の地頭職を世襲し,強力な制海権を有して南北朝時代に最盛期を現出するが,両朝合一後は伊予守護河野氏に服属。豊臣秀吉の四国平定で河野氏とともに滅亡。鎌倉初期から戦国期までの《忽那文書》が残る。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「忽那氏」の意味・わかりやすい解説

忽那氏
くつなうじ

伊予(いよ)(愛媛県)忽那島の豪族で海賊として著名。藤原道長(ふじわらのみちなが)の子孫の近賢(ちかかた)が忽那氏を称し、鎌倉時代には代々忽那島の地頭であった。9代重義(しげよし)は河野(こうの)氏支族の得能(とくのう)氏を称したこともあった。南北朝時代には、重義の嫡子重清(しげきよ)は北朝方に属したが、弟義範(よしのり)は父に従い後醍醐(ごだいご)天皇の皇子懐良(かねよし)親王を守護し、以後一族は南朝方として活躍した。一族は分かれて、二神島(ふたがみじま)の二神氏のように忽那七島に土着する者もあった。室町時代には、河野氏の一門として足利(あしかが)将軍家の支配下にあって家運を保った。しかし河野氏の衰退により勢力の維持が困難となり、1587年(天正15)小早川(こばやかわ)氏に滅ぼされた。

[山本 大]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「忽那氏」の意味・わかりやすい解説

忽那氏
くつなうじ

伊予国忽那諸島を根拠とした豪族。平安時代末期,ここへ配流された藤原近賢を祖とする。瀬戸内海水軍として活躍。鎌倉時代,地頭となり,南北朝,室町時代には河野氏に属したが,天正 13 (1585) 年小早川隆景に滅ぼされた。

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世界大百科事典(旧版)内の忽那氏の言及

【瀬戸内海】より


[南北朝~室町期]
 元弘の乱(1331)で鎌倉幕府の瀬戸内海支配体制も瓦解した。この乱に際し伊予河野氏庶家の得能(とくのう)・土居両氏らは忽那(くつな)氏や大三島(おおみしま)の祝(はふり)氏らと結んで宮方の軍を起こし,来襲した長門探題北条時直を星ヶ岡(現,松山市)で破り,その没落を決定的にした。建武の新政府に背いた足利尊氏が西走ののち九州から海陸両道を攻め上った際には,(とも)(現,福山市)で合流した四国の細川・河野両氏をはじめ,瀬戸内の目ぼしい諸豪族はこれに加わった。…

※「忽那氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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