改訂新版 世界大百科事典 「禁酒運動」の意味・わかりやすい解説
禁酒運動 (きんしゅうんどう)
過度の飲酒にたいする戒めの歴史は酒の歴史とともに始まったようで,古代オリエントについてすでにそうした記録がある。飲酒の行為はもともとは宗教行為と密接な関係にあったが,飲酒がしだいに日常化するにつれて酒の弊害は広く社会問題になっていった。そして近代社会になると禁酒ないし節酒を目的とする組織が結成され,個人の意識を啓蒙する,あるいは立法府に働きかけてなんらかの規制措置をとらせようとする運動が生まれた。この運動がとくに盛んになるのは19世紀の初めから20世紀の初期までで,その中心になったのがイギリスとアメリカであった。それはこの二つの国が,地中海沿岸を中心とするブドウ酒圏に属さず,18世紀以降,ジンやウィスキーなどの高アルコール度の蒸留酒が急速に普及したこと,市民の禁欲的な道徳律を説くピューリタニズムの思想が社会生活のうえで支配的になったことによると考えられる。そして産業社会の初期の段階では労働者の貧困の原因を飲酒の習慣に求める見方が有力であり,禁酒運動は労働者の救済と更生を目ざすもろもろの博愛主義の運動の一つとして始まった。飲酒の問題は貧困と劣悪な都市環境とに深くかかわっていた。その限りでは生活水準の向上と環境の整備によって飲酒の問題はだいたい解決され,社会改良運動としての禁酒運動もかつてのような勢いは失った。しかし今日では逆に豊かな社会のなかでの過度の飲酒という新しい問題が生まれている。おそらく酒が飲まれる限り,禁酒運動のようにそれの抑制を求める運動は存在し続けるようである。
イギリス
イギリスで飲酒が深刻な社会問題になるのは18世紀,オランダから伝わったジンが広く飲まれるようになってからである。19世紀になるとイギリスの伝統的な酒であるビールについてもその飲み過ぎが指摘されるようになった。1829年,アイルランドとスコットランドでほぼ同じ時期に反飲酒の組織が生まれ,そして31年にはロンドンで全国的な組織である〈内外節酒協会British and Foreign Temperance Society〉が結成された。この協会はたとえばおもに上・中流階級がたしなむブドウ酒を容認するというように,穏和な節酒temperanceを目標としていた。しかしそれにあきたりない人々は全面的な禁酒teetotalismを目ざす運動をおこした。これらの運動の中心的な担い手はクエーカー教徒などの非国教徒であり,都市の中流階級と上層の労働者階級を基盤にしていた。19世紀後半になるとアメリカの影響を受けて法的な規制による飲酒の制限prohibitionを求める運動が生まれた。議会では自由党がそのスポークスマンになり,パブの営業条件を中心とする飲酒規制の問題は,醸造業者の支持する保守党と自由党との大きな政治的争点になった。イギリスで1人当りの酒の消費量が頂点に達するのは19世紀の後半で,その後は減少していった。そして第1次世界大戦におけるパブの営業時間にたいする規制と大幅な酒税の値上げは消費量減少の傾向に拍車をかけた。その後は飲酒問題は政治の表舞台からは姿を消した。
執筆者:見市 雅俊
アメリカ
ピューリタニズムの伝統の強いアメリカのニューイングランド地方では早くから酒精飲料に対し社会の風習を損なうといった批判が強く出されていたが,1826年にボストンで禁酒協会が設立され,46年にはメーン州で最初の禁酒法が制定されるなど,禁酒運動は盛り上がりを示した。それに伴い北部の他の地域や西部にも拡大し,56年までに13州で禁酒法の制定をみ,さらに69年には20州からの代表の参加の下にシカゴで禁酒大会が開催され,禁酒党Prohibition Partyを結成,72年の選挙戦では大統領候補をたてるまでになった。こうした活動には女性も積極的に参加したが,禁酒運動は婦人参政権運動その他種々の改革運動とも連帯を図った。そして93年には各地の禁酒運動の活動を調整し,いっそう強力にするためにアメリカ禁酒連盟Anti Saloon Leagueが結成され,以後この組織が運動の中軸となり,強力な圧力団体として機能することになった。
このように禁酒運動は一面でめざましい進展をみせたが,実際には所期の成果があがったわけではなく,むしろ地域的な禁酒の困難さが強く認識されるようになった。すなわち州内でも都市部と農村部では考え方に大きな開きがあり,州禁酒法では一般に禁酒地域と飲酒許可地域を設けたり,時間的制約を設定するなど部分的禁酒措置がとられたが,厳密な意味での禁酒とはならず,1906年までに3州以外では禁酒法は廃止された。したがって真に効果的な禁酒を実現するには合衆国憲法を修正して全国的な禁酒法を制定することが必要とみなされるにいたり,第1次大戦期の道徳意識の高揚を背景にそれを達成,20年1月より〈禁酒時代〉に入った。だがギャングの隆盛など社会的弊害はきわめて大きく,33年禁酒政策は撤廃された。以後若干の州で禁酒法が維持されたが,運動は衰退した。
→禁酒法
執筆者:新川 健三郎
日本
日本での禁酒運動は1886年ごろに札幌農学校の伊藤一隆や婦人矯風会の矢島揖子によって先鞭をつけられた。ついで京都西本願寺の仏教学生による運動も起こった。88年ハワイ領事安藤太郎がハワイに禁酒会をつくり,90年には安藤,伊藤らによって日本で初めての日本禁酒同盟会が設立され,この組織が以降禁酒運動の中心となり,現在にいたっている。当初はキリスト教の影響下にあったのでキリスト教布教の手段との誤解があったため,1919年には禁酒運動そのものを追及する国民禁酒同盟が分離独立したが,翌年,日本国民禁酒同盟として両同盟は合同した。当初個々人に禁酒をすすめることを主としていた運動はその後禁酒法制定促進を目標とする運動に重点がおかれるようになり,根本正の25年間の努力によって未成年者禁酒法が成立した(1922)。その後は未成年者禁酒法を飲酒取締法と改称して,年齢を引き上げて25歳未満に適用しようとする25歳禁酒法の制定を追及したが,果たさなかった。第2次大戦後は,飲酒開始の低年齢化とともに,未成年者禁酒法を守る運動を強化し,禁酒会の拡大,アルコール依存者のリハビリテーションに努力している。今後の課題としては,女性の社会進出,風俗,慣習とともに増大しつつある,女性のアルコール依存などへの取組みが考えられる。
執筆者:今 防人
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報