スリランカ(読み)すりらんか(英語表記)Sri Lanka

翻訳|Sri Lanka

共同通信ニュース用語解説 「スリランカ」の解説

スリランカ

インドの南にある人口約2200万人の島国。仏教徒中心のシンハラ人が多数派で、ヒンズー教徒中心のタミル人やイスラム教徒も暮らす。中国などから借り入れた多額の資金返済に窮し、2022年にデフォルト(債務不履行)状態に陥った。市民の抗議行動が激化して当時のラジャパクサ大統領が辞任し、残り任期をウィクラマシンハ前大統領が務めた。(ニューデリー共同)

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精選版 日本国語大辞典 「スリランカ」の意味・読み・例文・類語

スリランカ

  1. ( Sri Lanka ) インド半島の南東端、インド洋のセイロン島を占める共和国。正称はスリランカ民主社会主義共和国。首都スリ‐ジャヤワルダナプラ‐コッテ。古来、東西海上交通の要地にあたり、一六世紀以来、ポルトガル・オランダ・イギリスの植民地となった。一九四八年にイギリスから独立し、セイロンと称した。七二年、現在名に改称。茶・ゴム・宝石を産する。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「スリランカ」の意味・わかりやすい解説

スリランカ
すりらんか
Sri Lanka

インド半島南東のインド洋にあるセイロン島からなる国。正式名称はスリランカ民主社会主義共和国Sri Lanka Prajatantrika Samajavadi Janarajaya。英語ではDemocratic Socialist Republic of Sri Lanka。旧称はセイロンCeylon。面積6万5610平方キロメートル、人口1879万7000(2001センサス)、2035万9439(2012センサス)。首都は、1985年コロンボから郊外のスリ・ジャヤワルダナプラ・コッテSri Jayawardanapura Kotteへ遷都した。

[吉野正敏]

自然

セイロン島は南北に細長いセイヨウナシの形をなし、中央やや南寄りに山地があり、周辺に向かって低くなり、山麓(さんろく)から海岸低地に至る。山地は最高峰のビドルタラガラ山(2518メートル)やアダムズ・ピーク山(2243メートル)など、2000メートル級もあるが、ほとんどは1500~2000メートルの峰で、唯一の大河川であるマハベリ川(全長330キロメートル)がここを源とする。海岸線は単調で、砂州やラグーンもよく発達している。インド半島とは砂州や浅瀬の続くアダムズ・ブリッジでつながり、北西部とインド半島の間には広い大陸棚上にサンゴ礁が発達する。

 気候は熱帯海洋性で、島の南西部はウェット・ゾーンとよばれ、最多雨域では年降水量は4000~5000ミリメートルに達する。残りの約4分の3はドライ・ゾーンとよばれ比較的乾燥し、年降水量は1000~1200ミリメートルである。ウェット・ゾーンに位置するコロンボの年平均気温は27.5℃で年較差は小さい。年降水量は2312.9ミリメートルである。中央山地の町ヌワラ・エリヤは標高1881メートルで、年平均気温は15.5℃、避暑地であり、冷涼な気候を利用して近年は野菜の栽培が盛んである。5月から9月までは西ないし南西の季節風による雨が、風上側の斜面となるウェット・ゾーンで多い。この期間をヤラ季とよぶ。それに対し12月から2月までを中心とした期間は北東の季節風が卓越し、全島で雨が降る。この期間をマハ季とよぶ。これらの期間の雨は米の生産にはとくに重要であり、また、電力や上水道の水資源として重大な価値をもっている。ドライ・ゾーンでは、タンクとよぶ貯水池、いわゆる「溜池(ためいけ)」を古くからつくってマハ季における不安定な雨量に対処してきた。北部の雨の少ない地域は人口密度も1平方キロメートル当り100人以下で、サバナ気候を呈する。また、最北部のジャフナ半島や南部のハンバントータ付近は、風が強く雨が少なく、ごく海岸線に近い地域では一部砂漠気候に似た乾燥気候を示す。マハ季とヤラ季の間は両季節風が入れ替わる時期で、局地的な雷雨が多く雨量は不定である。しかし、作物の種播(たねま)き、成長にとって雨は重要であり、この期間に雨がなく、続く季節風の雨がまた不順であると、ひどい干魃(かんばつ)となる。

[吉野正敏]

歴史

紀元前543年に北インドからビジャヤVijaya王子がシンハラを引き連れて渡来し、先住民ベッダを征服して初めて王朝を築いた。この王朝は前3世紀に仏教に帰依(きえ)して、北部スリランカを中心に栄え、首都アヌラダプーラは仏教の中心地として隆盛を極めた。また、南東部にも別の王朝が建設された。シンハラはドライ・ゾーンをその後も約1000年の間支配し、南インドのタミルと文化的にも人種的にも交流が盛んであった。シンハラの王は、后(きさき)をタミルから求めることが慣習であったほどである。11世紀には南インドのタミルがスリランカに侵攻し、首都アヌラダプーラが占領され、シンハラは南部に追われた。しかし、シンハラは1070年にはタミルを破って首都をポロンナルワに移し、パラクラマバフ1世(在位1153~1186)の治政下に「シンハラ文化の黄金時代」を築いた。13世紀にはふたたびタミルに征服され、シンハラは多くの小国に分裂し、15世紀には北部はジャフナ王国、西部はコーッテー王国、東部はウダラタ王国が支配した。

 紀元前から紀元後にかけた古代の集落は、北部の比較的乾燥した地域と低地の谷の中に限られていた。乾燥した地域では、前述のようにタンクとよばれる貯水池および灌漑(かんがい)施設の高度な建設技術が発達していた。全土におびただしい数の小さいタンクが建設され、アヌラダプーラやポロンナルワなどがその好例である。そのあるものは今日でも使用されているほどである。また、「シンハラ文化の黄金時代」がなぜ衰退したかについては諸説がある。すなわち、タミルによるたび重なる侵攻による政体の弱化、国力の衰退によって灌漑施設の新しい建設や保守修理が十分にできなくなったこと、干魃(かんばつ)などによる食糧の不足、マラリアによる人口減などである。また、今日の知識では、南西部のウェット・ゾーンのほうが雨も多く、農業生産には適しているように思われるが、なぜ比較的乾燥しているドライ・ゾーンに古代国家が定着したかの問題もある。その一はおそらく、その当時の農業技術はインドからもたらされたもので、それは乾燥地域の灌漑による農耕の技術であったこと、その二は、南西部の熱帯森林の湿潤地域は居住するのにはあまりにも交通、衛生などの点で不適であったことが理由ではなかろうか。

 西海岸には7世紀以後イスラム教徒が貿易を行っていた。1505年にはポルトガル人が来訪し、1510年にコロンボを建設、イスラム教徒を追放し、カトリック教などヨーロッパ文化をもたらした。その後、17世紀にはオランダ人が来訪して1656年コロンボはその手に落ちた。シンハラは中央山地にキャンディ王国を築いて引きこもった。さらに19世紀初めにはイギリスによる植民地化が始まった。イギリスはキャンディ王国の内紛に乗じて1815年にこれを征服し、約2300年続いたシンハラ王朝が滅亡した。セイロン全島がイギリスの植民地となり、1820年代から山地を開墾してコーヒー園を開いた。南インドからはタミルを労働者として移住させプランテーション農業を開始した。1880年にコーヒーが病害を受けたので茶(紅茶)の栽培に変更した。20世紀になって、ゴムやココヤシのプランテーション農業を開始し成功した。

 19世紀後半以後、インドの独立運動やイギリス帝国内部の自治制の発展などの影響のもとに、民族意識が台頭し始め、1931年の新憲法では、普通選挙による国民議会が設立された。

 さらに第二次世界大戦後、完全自治の声が高まり、1946年の自治憲法施行を経て、1948年2月、イギリス連邦内の自治領セイロンとして独立した。1956年4月にはバンダラナイケ内閣が成立、社会主義的中立政策を進めた。1959年9月バンダラナイケ首相が暗殺され、1960年3月統一国民党のセナナヤケ内閣が成立、同年7月、総選挙で自由党が勝ち、バンダラナイケ夫人Sirimavo R. D. Bandaranaike(1916―2000)が女性では世界最初の首相となった。1972年5月、新憲法を制定、国名をセイロンからスリランカ共和国と改め、イギリス連邦自治領からイギリス連邦加盟の完全独立国となった。1977年5月の総選挙でバンダラナイケ政権は敗退、かわったジャヤワルデネ首相は議院内閣制から大統領制に移行し、1978年2月初代大統領に就任した。同年9月新しく民主社会主義憲法を公布し、現在のスリランカ民主社会主義共和国を国名とした。1982年10月ジャヤワルデネ大統領は任期満了を待たずに大統領選を実施し大勝した。

[吉野正敏]

政治

政体はイギリス連邦加盟の共和国。元首は大統領で任期は6年、3選は禁止。国会は一院制で議席数225、比例代表制の直接選挙で選ばれ任期は6年である。主要政党は統一国民党(UNP)、スリランカ自由党(SLFP)、人民解放戦線(JVP)、タミル国民連合(TNA)、国民遺産党(JHU)などがある。

 1983年以降、シンハラとタミルの対立が激化している。1983年7月、ジャフナで政府軍兵士をタミル過激派が攻撃し13人が死亡したのをきっかけに、人種対立で約400人が死亡した。また、1984~1985年にも数回にわたって人種暴動が起こっている。ジャヤワルデネ大統領はタミル統一解放戦線(タミル国民連合の前身)の代表も加えて全政党円卓会議その他の政治的解決を図った。

 1987年7月、インドのガンジー首相の調停により、民族抗争はいちおう終結した。しかし、多数派のシンハラの左翼過激派JVPが、タミル少数派へ譲歩しすぎであるとして反発し、政情は騒然となり、1988年12月統一国民党のプレマダーサRanasinghe Premadasa(1924―1993)大統領が生まれた。1989年の選挙では統一国民党が過半数の議席をとり、同年5月政府側の呼びかけで、タミル武装組織「タミル・イーラム解放の虎(LTTE)」も交渉のテーブルについた。

 インド軍の撤退は1990年1月には完了せず、同年6月からふたたびタミル過激派とスリランカ軍やインド軍との争いが激化した。1993年5月1日、プレマダーサ大統領が爆弾テロにより暗殺され、ウィジェトンガ大統領が生まれた。1995年8月の総選挙の結果、左派連合政党の野党人民連合(PA)が統一国民党を破り、17年ぶりに左翼政権が成立した。11月の大統領選挙でクマラトゥンガ首相が大統領になり、その母親で、スリランカ独立の立役者バンダラナイケ元首相夫人でもあるバンダラナイケ女史が三度目の首相のポストについた。1996年1月31日、コロンボ市の中心部で爆破事件が起きたが、スリランカ社会一般の表だった反応はあまりなかった。

 1999年の大統領選挙でクマラトゥンガ大統領が再選され、2000年の総選挙でスリランカ自由党を中心とする人民連合が勝利した。しかし、2001年の総選挙では統一国民党が第一党となり、同党のウィクラマシンハRanil Wickremesinghe(1949― )が首相となり組閣した。ウィクラマシンハ内閣は「タミル・イーラム解放の虎」との停戦合意を成立させ和平交渉を始めたが、2003年に交渉は中断した。2004年の総選挙では、スリランカ自由党と人民解放戦線を中心とする統一人民自由連合(UPFA)が勝ち、スリランカ自由党のラジャパクサMahendra rājapaksa(1945― )が首相となり新政府が発足した。その後、人民解放戦線が内閣から離脱したが野党議員を取り込み、過半数を維持している。2005年の大統領選挙ではラジャパクサが統一国民党党首のウィクラマシンハを破り大統領に就任した。2008年、ラジャパクサ政権は2001年の「タミル・イーラム解放の虎」との停戦合意を脱退、停戦合意は失効した。

 政策的には欧米諸国との関係の強化を図り、またASEAN(アセアン)(東南アジア諸国連合)、中東諸国、日本との関係も親密化している。

 軍隊は志願兵制で、総兵力は15万0900、うち陸軍が11万7900、海軍が1万5000、空軍が1万8000(2008)。第二次世界大戦中、日本海軍が東海岸のトリンコマリーの軍港を砲撃したことがあるだけで、日本との間に大きな戦争を経験したことはない。

[吉野正敏]

経済・産業

独立以後、経済停滞からの脱皮をねらっていたが、植民地型の経済構造からの変革は容易ではなかった。耕地の3分の2が茶と天然ゴムとココヤシのプランテーション作物にあてられ、これらが三大輸出産品で農業依存型経済であったが近年は工業化が進み、衣類製品が最大の輸出品目に育っている。

 茶は南インドから移住したタミル労働者によって開拓された大規模農園で生産が行われ、典型的なプランテーション作物である。独立後も茶園の47%、ゴム園の34%、銀行の68%、流通の90%をイギリス人が所有していたが、1971年と1975年にそのほとんどが国有化された。茶は標高600~1200メートルの山地の茶園で栽培されるが、ハイランド・ティーとよばれる高地産の茶は市場で高価をよぶ。茶の生産量は31万1000トン(2006)で世界の約9%を占め、中国、インドに次いで第3位である。その大半が輸出されるため、世界市場では約5分の1のシェアを占める。これはスリランカの輸出総額の約1割にあたる。

 天然ゴムは標高500メートル以下の台地に集中しており、生産量は10万9000トン(2006)で世界第8位である。ココヤシの実のココナッツは、かつて年産200万トンを超えたが近年は減少している。米の生産は独立当時にはわずかに38万トンであったが、1970年代末には約180万トンで約5倍になった。これでも全人口の食糧をまかなうには不足していたが、豊作年には輸入しなくてもよいほどにまでなった。これらは、栽培技術の向上や、よりよい品種の導入ばかりでなく、栽培面積の拡大に大きく依存してきた。1950年ごろに比較して、1980年ごろには、栽培面積はほぼ2倍になり、約200万エーカー(約8000平方キロメートル)に達した。米の生産に及ぼす雨の影響は大きく、とくにマハ季の米作には決定的な条件となる。雨量が異常に少ない場合には、そのマハ季が凶作となるばかりでなく、それに続くヤラ季作まで低収量となる。そこで北東部のマハベリ川流域の総合灌漑(かんがい)計画を世界各国の援助のもとに進めた。これは流域の約14万ヘクタールに灌漑施設の整備、未利用地の農地開発、入植地のインフラ(経済基盤)整備などを行うものである。完成すれば食糧の自給、エネルギーの安定供給、失業の解消などの見通しが明るくなる。2006年には、米の生産量は334万2000トンに達している。

 水産資源は豊富で、1975年に漁業公社を設立し、ネゴンボに漁業訓練センターを建設した。漁獲高は年々増加しており、冷凍エビは重要な輸出品である。2003年の漁獲量は27万9110トンで、そのうち91%が海面漁業による。

 黒鉛(石墨)、ペンキ顔料のイルミナイト(チタン鉄鉱)や各種の宝石を産生する。ルビー、サファイア、トパーズ、ガーネットは古くから世界に知られ、南西部の山中のラトナプラが採掘の中心である。

 2004年12月に発生したスマトラ島沖地震による津波(インド洋大津波)では死者3万人を超え、およそ84万人が避難生活を余儀なくされるなどの自然災害をはじめ近年の治安悪化や原油価格高騰等、経済に悪影響を与える要因もあったが5%を超える経済成長率を示し、2006年には7.4%、2007年には6.8%の成長率を記録している。2007年の国内総生産(GDP)は323億5000万ドル、1人当り国内総生産は1617ドルとなっている。

 貿易額は輸出77億4000万ドル、輸入113億ドル(2005)。輸出品目は繊維・衣類製品、紅茶・ゴムなどの農業産品、宝石類など、輸入品目は繊維、機械、石油、食料品などである。おもな輸出相手国・地域はアメリカ、イギリス、インド、ベルギー、輸入相手国はインド、シンガポール、香港、中国、イランなどとなっている。

 鉄道はすべて国営で総延長1449キロメートル(2003)である。国内の交通は国営のバスが各地を結び、よく整備されている。海運はヨーロッパとアジアを結ぶ中継基地として古代から発達しており、コロンボは最近でも重要な港である。国際航空路はスリランカ航空がヨーロッパ、日本を結び、観光客を誘致するのに一役買っている。

[吉野正敏]

社会・文化

スリランカの全人口の約73%はアーリア系のシンハラで、南西部や高地に多く住み、シンハラ語を使い仏教を信仰している。シンハラより遅れて南インドから移住したドラビダ系のタミルは全人口の約18%で、北部を中心にして東海岸などのドライ・ゾーンに住み、ヒンドゥー教を信仰している。シンハラの人々は高地シンハラと低地シンハラとに区別され、ともに仏教徒であるが、インドとは異なる独自のカースト制をもつ。タミルも、早くから来島したセイロン・タミルと、イギリス人のプランテーション労働者として移住してきたインド・タミルとに区別され、後者は最下層のカーストに属するものがほとんどである。

 インドなどに比較して国民の教育程度が高く、識字率は91.5%(2007)と高い。教育制度は五・六・二制で、初等教育(小学校)5年、中等教育(下級中学校4年、上級中学校2年、高等学校2年)となっている。義務教育は5歳~14歳までで、公立、私立、仏教学校がある。大学は各地にあるが、キャンディ郊外にあるペラデニヤ大学は図書館も整い、文化形成の中心的存在をなしている。

 公用語はシンハラ語とタミル語であるが、両者は言語系統が異なるため、共通語として英語が広く通用する。町ではインド英語に似た訛(なま)りのセイロン英語が聞かれる。

 おもな新聞は『セイロン・デーリー・ニューズ』『アイランド』『デーリー・ミラー』『ディナミナ』『ダワサ』などがある。通信社はPTC通信、ランカプバト通信がある。ラジオは国営スリランカ放送協会(SLBC)ほか民間放送局がある。テレビは政府系テレビ(ITN)が1982年から放映を開始した。2001年にはテレビ保有台数は全国で220万台に達し、2007年にはテレビは14チャンネル、ラジオは32局となっている。

 国内には、インド文化の影響を受けた仏教美術の遺跡が多い。とくに古い首都であったアヌラダプーラと、その南東80キロメートルにある中世に栄えたポロンナルワに多い。出土した美術品の多くがコロンボの国立博物館に所蔵されている。代表的なものはストゥーパ(塔婆)と、それに付属した彫刻である。キャンディの中心には釈迦(しゃか)の歯を安置する仏歯寺があり、人々の崇敬を集め観光客が多い。仏歯を祭る大祭がペラヘラ祭りで、普通は8月に10日間続き、国内の遠くの地方からも人が集まる。また、ペラデニヤには世界的に有名な熱帯植物園がある。

[吉野正敏]

日本との関係

国民の生活感情は温和で、同じ仏教を信仰するためと思われるが日本人と共通するところが多く、対日感情もすこぶるよい。

 日本との貿易では、日本への輸出額197億8000万円、日本からの輸入額391億9000万円(2005)となっており、おもな輸出品目はエビ、繊維製品、紅茶、マグロなど、輸入品目は自動車、一般機械類、繊維品、電気機械、建設機械などで、日本は輸入、輸出とも第6位の貿易相手国である。

 日本のスリランカへの政府開発援助(ODA)額は、有償資金協力(2008年度まで)7562億5100万円、2007年度までの無償資金協力、技術協力実績は1831億2900万円、609億8900万円となっている。日本はスリランカに対する最大の援助国である。

[吉野正敏]

『杉本良男編『暮らしがわかるアジア読本 スリランカ』(1998・河出書房新社)』『辛島昇他監修『南アジアを知る事典 新訂増補』(2002・平凡社)』『渋谷利雄・高桑史子編著『スリランカ――人びとの暮らしを訪ねて』(2003・段々社)』『川島耕司著『スリランカと民族』(2006・明石書店)』


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改訂新版 世界大百科事典 「スリランカ」の意味・わかりやすい解説

スリランカ
Sri Lanka

基本情報
正式名称=スリランカ民主社会主義共和国Democratic Socialist Republic of Sri Lanka 
面積=6万5610km2 
人口(2010)=2065万人 
首都=スリ・ジャヤワルダナプラ・コーッテSri Jayawardanepura Kotte(日本との時差=-3.5時間) 
主要言語=シンハラ語,タミル語 
通貨=スリランカ・ルピーSri Lanka Rupee

インド亜大陸の南東端の海上に位置する,セイヨウナシの形をした島国である。英領時代には,外国ではセイロンとして知られていた。面積は九州と四国を合わせたよりも少し広い。人口は年に約1.5%の比率(1984-89年平均)で増加している。

スリランカ島の地質学的な形成は古く,南インドと共通している点が多い。島の北部は平たん地であるが,南へ進むにしたがって山地となり,最高峰のピドゥルタラーガラPidurutalagalaは2524mである。西ガーツ山脈の終着点とみることもできる中央山地が,スリランカの気候に大きな影響を及ぼしている。この中央山地を含む南西地方は,年に2回のモンスーンがみられ降水量も多く,〈湿潤地帯〉と呼ばれ,水稲の二期作が行われている。紅茶,ゴム,ココナッツなどのプランテーションも,湿潤地帯に集中し,人口密度も非常に高い。

 年間降水量が1875mmより少ない地域が,全島面積の約7割を占める北部と東部であり,〈乾燥地帯〉と呼ばれている。なんらかの人為的な手段を用いて灌漑しないと主食である米作が困難であり,人口密度も希薄である。ジャングルに覆われている地域が多く,焼畑農業が広範に営まれている。水利を除く土地条件は,湿潤地帯よりすぐれているため,20世紀に入ってから灌漑施設の復旧とマラリアの撲滅により,入植事業が推進されるようになった。スリランカ第1の大河であるマハウェリMahaweli水系(335km)を開発し,乾燥地帯を灌漑して穀倉化し,南西地方の住民を移住させる計画が長期的に進められている。

先住民族はベッダ人Veddaであるが,今日では1000名弱の人口に減少し,固有のベッダ語もしだいに失われつつあるとみられている。総人口の約74%を占めるシンハラ人が多数民族であり,低地シンハラ人と山地シンハラ人とに区分され,それぞれ適用される身分法が異なる。1956年以降シンハラ語が公用語とされている。少数民族のうちで最大のものは,タミル人Tamilであり,総人口の18.2%(1981)を占める。このうち12.7%のスリランカ・タミル人は,シンハラ人同様に古くから定住していたが,5.5%のインド・タミル人は英領時代にプランテーション労働者として来島し,スリランカとインドの両国政府から市民権を拒否されている。マラッカラ人Marakkalaと呼ばれるイスラム教徒の住民が約7.1%で東部および南西部の沿海地方に住み,タミル人同様タミル語を母語としている。タミル語は1978年に国語の地位を与えられた。このほか,マレー語を母語とするマレー人,英語を母語とするバーガー人Burgherが,それぞれ約0.3%ずつの人口比率を占める少数民族である。

スリランカの国旗には剣を手にしたライオンが描かれている。最初のシンハラ王がライオンの孫であるという建国説話にちなんでいる。現存する最古の史書《ディーパバンサ(島史)》が生硬なパーリ語で編纂されたのは,3世紀中葉であり,日本の《古事記》より古い。ブラーフミー文字による古代シンハラ語の刻文は,さらに古く前3世紀にまでさかのぼることができる。インドの西海岸から700人の部下とともに漂着したビジャヤVijayaが,先住民族を征服し,シンハラ王朝を建てたのは,前483年と伝えられている。南インドのマドゥライから700名の女性を招き,生まれた子孫が今日のシンハラ人の出自であると信じられている。しかし,タミル人学者の間では,ポーク海峡をはさむインドとスリランカの沿岸地方の双方を領域とする海峡国家が,このころ成立したという説も有力である。

 前3世紀中葉に仏教が伝えられ,王をはじめとする有力者を帰依させた。このとき以来,仏教はこの島で最も勢力のある宗教でありつづけ,東南アジアで広く行われている上座部仏教の源流となった。後1世紀ころから王都アヌラーダプラを中心に,巨大な貯水池群が建設され,水路網で連結して利水する大灌漑事業が,乾燥地帯で着手された。マハウェリ水系,カラーKalā水系およびワラーウェWalawe水系を中核とする古代灌漑文明が長年月をかけて開花した。5世紀には中国僧法顕が来島し,当地の風物や仏教寺院などについて記録を残しており(《法顕伝》),スリランカは〈師子国(シンハラ)〉と記されている。彼を驚嘆させた仏塔などの大伽藍も,水利構造物の建築技術を活用していたことが知られている。古代灌漑文明の到達点は,ポロンナルワに都を置いたパラクラマバーフParakuramabahu王(在位1140-84)の事跡に象徴される。灌漑農業の生産力を基礎に同王は,インドやビルマ(現ミャンマー)にまで遠征軍を進めたと記録されている。しかし,1000年以上にわたって営々と築き上げられた乾燥地帯の灌漑農業も,13世紀には放棄され,人々は天水に依存する湿潤地帯へと移り住んでいったのである。この時期になぜ灌漑施設が放棄され,ジャングル化していったかについて,王朝の内紛,外国からの侵略,気候の急変,病虫害による不作,土壌の疲弊,洪水による水利施設の決壊,マラリアのまんえん,灌漑の維持管理組織の解体,水資源の過剰開発など,さまざまな説がたてられている。しかし,いずれも定説とはなっていない。

 15世紀初頭に鄭和の船隊が来島し,中国(明朝)の朝貢国となるが,植民地として実質的な支配を受けることはなかった。1505年にポルトガルの艦隊がコロンボColombo近くに漂着した。この頃,南部のシンハラ王朝は分裂し,三つの小王国に分かれていた。北部にはジャフナを王都とするタミル王国が独立していた。ポルトガルはニッケイ(肉桂)を集荷するための商館を1517年にコロンボに築き,徐々に沿海地方を領有・支配するようになった。17世紀に入ると,ニッケイ貿易の独占権をめぐってポルトガルとオランダの長い戦いが始まり,オランダ東インド会社が最終的にポルトガル領を継承した1658年には,島民の権力はキャンディに都を置くシンハラ王国のみとなり,内陸部に封じこめられていた。

 ナポレオン戦争の一環として,1796年にイギリス東インド会社がオランダ領を接収し,1802年のアミアン条約で,スリランカを直轄植民地に編入することが認められた。1815年にはキャンディ王国の内紛に乗じて,これを併合し全島の一円支配を完成した。1818年と48年にイギリス支配をくつがえそうとする反乱が企てられたが,いずれも圧倒的な軍事力の差で鎮圧された。イギリスの植民地経営は当初,オランダ同様にニッケイ貿易の独占を目的としていたが,1830年代からプランテーション農業の開発へと転換した。湿潤地帯の山地にコーヒーを栽植し,南インドの下層カーストの労働力を移植した。こうしてプランテーション的生産様式の基本的な経営形態が,19世紀中葉に成立したのである。80年代にコーヒーの葉の病害がひどくなったうえ,国際市場におけるブラジル産コーヒーとの競争条件も悪化したので,紅茶への植替えが進められた。20世紀に入ると,同じプランテーション方式によるゴムの栽培が大規模に行われるようになった。紅茶とゴムの農園に居住するタミル人労働者の定住化が進み,老後も南インドへ帰らず,生活の本拠を湿潤地帯の山地に置くようになったのである。インドとスリランカが政治的独立を達成したのち,これらのタミル人労働者(約100万人)は,双方の政府から市民権を与えられず,事実上の無国籍状態を余儀なくされている。両国間の交渉が繰り返され,1964年には一定の比率(インド8対スリランカ5)で,両国が引き取ることに合意したものの,この協定は部分的に実施されただけである。インド・タミル人の処遇は,今日もなお両国間の大きな課題として残っている。

 イギリス植民地支配のもとで英語教育が進められ,プランテーション関連産業を中心にして,スリランカ人の間で中産階級が形成されていった。第1次世界大戦以降,インド各地で高まりつつあった民族運動やイギリスの労働運動の影響下に,これらの英語教育を受けた中産階級を主体に,民族の自決や仏教の復興を目ざす運動がしだいに高まっていった。1931年のドノモア憲法Donoughmore Constitutionによって,普通選挙に基づく国家評議会が設置され,外交,財政,治安を除く一定の範囲で,島民の自治が認められた。そして,第2次世界大戦後,インド,パキスタン,ビルマなどの民族運動にも助けられ,イギリス連邦内の自治領として1948年2月4日に独立した。

独立後の政権は,シンハラ人中産階級の利害を代表する二つの政党が,総選挙のたびに与・野党を交替しながら担っている。ともに非同盟の外交政策をとっているが,統一国民党Eksat Jātika Pakshaya(シンハラ名)は親欧米色が強く,自由党Sri Lanka Nidahas Pakshaya(シンハラ名)はより民族主義的であり,社会主義諸国との友好関係を重視するといわれている。植民地時代には,分割統治政策によって,相対的に優遇されていたタミル人中産階級は,独立後の政権に参画する機会が乏しく,多数民族への不満が大きい。とりわけ,1956年にシンハラ語が公用語化されて以来,行政職,警察官,軍人などの分野は,ほぼ完全にシンハラ人が独占するようになり,タミル人は医師,技師,法律家などの専門職に向かいがちである。しかし,大学教育における英語の比重が低くなり,ジャフナ地方出身のジャフナ・タミル人に不利な入学制度が採用され,専門職の門戸も狭くなりつつある。北部のタミル人中産階級を中心に,シンハラ化政策に反発して,連邦制国家を求める声が強くなり,70年代中ごろから〈イーラム国Eelam〉として分離独立を主張する運動へと発展している(タミル問題)。

 他方,中産階級の政権交替劇から排除されていたシンハラ人農村青年の不満も大きく,人民解放戦線を結成し,71年には自由党,平等社会党および共産党の左翼統一戦線への大規模な武装反乱を行った。この反乱を支援したという理由で,朝鮮民主主義人民共和国の大使に国外退去を命ずるかたわら,イギリス,アメリカ,ソ連,インドなどに軍事援助を求めるという,国際的にも複雑な対応がとられた。72年の憲法制定により,自治領から共和国へと政体を改め,同時に上院を廃止し,一院制の議会制度を採用した。この憲法で,仏教に第1の地位を与え,仏教を保護し,育成することが国家の義務である,と定めているのは,シンハラ民族主義の表明でもあるが,ヒンドゥー教徒,イスラム教徒およびキリスト教徒の反発を招いている。

 77年の総選挙で大勝した統一国民党は,翌78年に憲法を改正し,スリランカ民主社会主義共和国として社会主義国家であることを宣明した。しかし,政策的には生産手段の国有化が進められた前政権の社会主義化を是正し,私企業による市場経済の競争関係を重視する方針をとっている。78年憲法では,国民の直接投票によって選ばれる大統領に行政権を集中し,議院内閣制の首相が補佐する制度をとり,第1回の大統領選挙が82年10月に行われ,J.R.ジャヤワルダナJayawardaneが就任した。国会議員の選出もイギリス風の小選挙区制から,比例代表制に改められた。しかし,82年12月に国民投票によって,現議会の任期をそのまま6年間延長する政府案が可決された。

 南インドには数千万人のタミル人が住んでいるので,シンハラ人の間には相対的に少数民族であるとの意識もぬぐい難い。そのため,タミル統一解放戦線の分離独立運動が,タミル・ナードゥ州の政治勢力と結ぶことへの警戒心が強い。このような民族対立が起爆剤となった暴動が,1958年,66年,77年,81年,83年,84年と間欠的に発生し,以後もシンハラ人とタミル人との流血の抗争が続発,戦争状態にまでなった。87年6月,インドはタミル人救援を理由に領空を侵犯してまで食糧や医薬品の投下を行い,積極介入に踏み切った。同年7月,ジャヤワルダナ大統領は一部閣僚の反対を押し切って,インド平和維持軍のスリランカ駐留を含む和平協定を,来島したガンディー・インド首相と結んだ。88年12月の大統領選挙で統一国民党のプレマダサ首相が当選し,89年2月の総選挙でも同党が勝利した。89年7月からインド平和維持軍の撤退が始まったが,この民族対立の解決は,長期にわたる苦痛にみちた道程を要するであろう。

 1994年12月,政府軍はスリランカ・タミル人の中心都市であるジャフナ市を制圧した。それ以来,分離独立派〈タミル・イーラム解放の虎〉(LTTE)は軍事的な根拠地を北東部のジャングルに移し,都市と農村の双方でゲリラ戦争を続けている。政府は,少数民族居住地域に自治権を認める憲法改正案を96年1月に公表した。しかし,野党や仏教界は,譲歩のしすぎであると反対している。コロンボでは同年1月末に爆発物を積み込んだトラックが白昼に大統領官邸近くの中央銀行に突入し,91名の死者と約1400名の負傷者を出した。7月にはコロンボ南部で通勤列車が爆破され,70名の乗客が死亡した。97年9月にも中央銀行近くの高級観光ホテルに爆弾攻撃が行われ,欧米や日本の観光業者や投資家にスリランカ離れを促す効果も発揮した。この間,北・東部州でも軍事拠点の争奪戦が続き,政府軍とLTTE軍が激しい戦闘を繰り返し,双方とも1万名を超える戦死者を出している。

植民地経済を引き継いだ当時のスリランカは,典型的なモノカルチャーの新興国で,輸出の9割以上を紅茶,ゴムおよびココナッツの三大作物が占めていた。しかし,社会資本は相対的に充実していて,1人当り国民所得,人口当りの自動車保有台数,道路舗装率,死亡率などの指標でみるかぎり,日本よりも上位にあった。統一国民党および自由党の歴代政権は,日本と違って高度成長政策をとらず,福祉政策に力を入れてきた。食糧の無料配給,入院や手術を含む医療の無償化,小学校から大学までの無償教育,農民への各種補助金などへの財政支出が大きな比重を占めていた。歴代内閣にとって,福祉と開発をいかに両立させるかが,最も大きな政策課題となり,総選挙も常にこの点をめぐって争われてきた。

 モノカルチャー経済から抜け出し自立する方策としては,輸入代替型の工業化政策がとられた。1950年代から保険,銀行,路線バス,食糧貿易,教育などの分野が公的部門に移管され,各種の製造業が公企業として設立された。製紙業,窯業,皮革製品,苛性ソーダ,製塩,セメント,イルメナイト鉱石,綿紡織,煉瓦,製粉業,タイヤ・チューブ,農器具,乳製品,石油精製,精糖業,黒鉛,海運業などがその主要なものである。生産手段の国有化を基礎に経済建設を進めるという理念が強く,72年には小生産者部門の農地改革,75年にはプランテーション部門の農地改革が実施されたが,農民や農園労働者に再配分されることなく,土地改革委員会によって収用された農地は,公企業の経営にゆだねられている。水産業についても,沖合漁業のために漁業公社が設立されている。しかし,全体として公的部門の生産性は低く,所期の成果をあげていない。アジア諸国のなかでも,経済成長率が著しく低い国に数えられている。

 このように停滞した国民経済を活性化すべく,77年に経済政策の全面的な転換が行われた。国際通貨基金と世界銀行の助言により,貿易・為替の自由化,福祉事業の削減,価格統制の撤廃,私企業への奨励策などを含む市場機構重視の開放経済体制をとって,韓国やシンガポールのような高度成長を目ざしている。西側諸国からの経済援助を積極的に受け入れ,三つの大きな開発事業に乗り出している。(1)マハウェリ水系開発による乾燥地帯への入植事業と水力発電,(2)コロンボ北部の自由貿易地域設定による外国資本の導入,(3)立法府の移転を含む都市開発事業,である。これらの開発事業による島内各地の土木工事は,西アジア諸国への出稼ぎと並んで,失業率の低下をもたらす一方,インフレーションを引き起こしている。また,開発事業がシンハラ人居住地域のみで実施されている,という批判が北部のタミル人側から出されている。開放経済体制によって,日本からの工業製品輸入が急増したが,日本への輸出は停滞しているので,巨額の貿易赤字が拡大している。この格差を少なくするため,日本から病院建設,カラーテレビ放送局建設,コロンボ港近代化事業,カトナーヤカ空港整備事業などの経済協力が行われている。

プランテーション関連産業の発達,植民地行政への参加,英語教育の普及,キリスト教の布教活動などの結果として,スリランカ社会では,中産階級の層が比較的厚く形成されている。生活様式や社会意識において,西欧化指向が著しく強く,ロンドンの中産階級の生活様式をモデルとすることが多い。中産階級は人口の1割弱を占めるにすぎないが,英語を話し,ズボンを着用し,電気製品を使用し,官職や専門職を独占することによって,他の住民から画然と区分されている。人口の9割は,シンハラ語もしくはタミル語を話し,サロン(腰衣)などの在来の服装をし,ランプを使用し,英語を必要としない職業に就いている。近年は,開放経済体制下の物価騰貴によって,固定的な所得源しかもたない公的部門の職員など特定の中産階級の地位が低下し,その不満がタミル系商店攻撃の遠因であるとみられている。中産階級は都市の住宅地区や商業地区に居住し,その他の人びとはおおむね農村とプランテーションに住んでいる。コロンボなどのスラム地区も,他のアジアの巨大都市に比べると小さい。全人口の半数以上(約800万)の人びとは,1世帯当り月収が300ルピー(約3000円)以下であり,食糧と灯油の配給切符を交付されている(1977以降)。

 住民の身分法は,ローマン・ダッチRoman-Dutch法(沿海地方のシンハラ人),キャンディ法(内陸部のシンハラ人),テーサマライTesamalai法(北部のタミル人),ヒンドゥー法(プランテーションのタミル人),イスラム法(イスラム教徒住民)などの異なった法域をもっている。司法制度は植民地時代にイギリス風に改められ,法律家の地位は高い。村会が一定の司法権をもっていた伝統があり,農村における訴訟件数は日本に比して非常に多い。内陸部では一妻多夫の慣行が認められていたが,今日ではほとんど行われていない。カースト制は,シンハラ社会とタミル社会の双方に存在するが,インドに比べその規制力が弱いといわれている。バラモン,クシャトリヤ,バイシャに対応するカーストがみられず,ゴイガマGoyigama(シンハラ人)とベッラーラVellāla(タミル人)という農民カーストが最上位を占めているのが特徴的である。カーストは通婚単位としての機能が中心であり,持参金(ダウリ)制度とともに配偶者を決める大きな条件となっている。

 宗教生活は多様であるが,相互に融和的である。たとえば,山岳信仰の対象となるスリ・パダにある山頂の足跡は,仏教徒にとっては仏足跡,ヒンドゥー教徒にとってはシバ神の足跡,イスラム教徒やキリスト教徒にとってはアダムの足跡として,ともに尊重されている。とくに仏教徒がヒンドゥー神にお参りに行ったり,ヒンドゥー教徒が仏像に手を合わせている光景は珍しくない。

 公教育はアジアでも最もよく普及しており,40歳以下で学校に通ったことのない人はほとんどいない。一つの私立医科大学を除く8大学はすべて公立である。学歴社会化が進み,入学資格を得るには10倍前後の競争試験を経なければならない。私塾や家庭教師への家計支出が,中産階級にとって大きな負担となっている。医学部,工学部など理科系の就職率はよいが,文科系の場合英語が話せない学生は,半数以上が卒業と同時に失業者になるといわれている。

 医療サービスの水準は高く,平均寿命は男68歳,女73歳(1988)に達している。都市部では西洋医学による病院で医療を受けるが,農村地帯では伝統的なアーユル・ベーダ医学が重要な役割を演じている。

 全体として,スリランカ社会の構造は,多民族,多宗教,多言語,多法域,多カースト,多階層という多様性によって特徴づけられよう。自然的にも文化的にも,インド的な要因と東南アジア的な要因とをあわせもっている,とみることもできるのである。
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百科事典マイペディア 「スリランカ」の意味・わかりやすい解説

スリランカ

◎正式名称−スリランカ民主社会主義共和国Democratic Socialist Republic of Sri Lanka。◎面積−6万5610km2。◎人口−2036万人(2012)。◎首都−スリジャヤワルダナプラコッテSri Jayawardanepura Kotte(立法・司法府,12万人,2007),コロンボColombo(行政府,67万人,2007)。◎住民−シンハラ人74%,タミル人18%,マラッカ人7%など。◎宗教−仏教70%,ヒンドゥー教15%,キリスト教,イスラムなど。◎言語−シンハラ語が大部分,ほかにタミル語(以上公用語),英語。◎通貨−スリランカ・ルピーSri Lanka Rupee。◎元首−大統領,シリセーナMaithripala Sirisena(1951年生れ,2015年1月就任,任期6年)。◎首相−ウィクラマシンハRanil Wickremasinghe(2015年1月発足)。◎憲法−1978年9月発効。◎国会−一院制(定員225,任期6年)。最近の選挙は2010年4月。◎GDP−407億ドル(2008)。◎1人当りGDP−1355ドル(2006)。◎農林・漁業就業者比率−44.6%(2003)。◎平均寿命−男71.2歳,女77.4歳(2013)。◎乳児死亡率−14‰(2010)。◎識字率−91%(2008)。    *    *デカン半島南東方のインド洋上の共和国。英語のセイロンCeylonが旧国名で,現在でも広く使われる。イギリス連邦に属する。ほぼ卵形をした島で,中央南部に山地があり,最高峰はピドゥルタラーガラ山(2518m)。北部に広い平野が広がる。インドとの間にアダムズ・ブリッジと呼ばれる砂州がある。気候は熱帯性で,5〜10月の南西季節風は,南西部に多雨をもたらす。北部は12月の北東季節風期を除き乾燥。農業が主で,茶,ゴム,米,ココナッツを産する。石墨の鉱産があるが,工業は小規模。1972年憲法によりイギリス連邦内自治国から共和国となり,元首は大統領,議会も一院制に改めた。 先住民はベッダ人で,前5世紀にシンハラ人が征服し,前3世紀以降仏教文化が繁栄した。中世にはタミル人の侵入に悩まされ,12世紀に北部にタミル王国が出現した。1505年以来ポルトガル人が来航し,17世紀にはオランダとの間で領有争いが行われた末,オランダの支配下に入った。ナポレオン戦争中の1796年英国が占領し,1815年キャンディ王国を滅ぼして全島が英領となった。1948年独立し,1972年新憲法によって共和制に移行し,国名をセイロンからスリランカに改めた。〈タミル・イーラム解放の虎(LTTE)〉など北東部の分離・独立を求めるタミル人の民族運動が1980年代以降,武装闘争にエスカレートしている。〈タミル・イーラム解放の虎〉との和平交渉では,2003年11月,慎重なクマラトゥンガ大統領と推進派のウィクラマシンハ首相(統一国民党)の間に対立が生じ,交渉が停滞した。2004年総選挙で,大統領派の統一人民自由連合(2004年発足)が勝利した。スマトラ沖地震に伴う2004年12月の津波で,同国は甚大な被害を受けた(死者約3万1000人,行方不明者約4000人)。→タミル問題
→関連項目ポロンナルワ南アジア

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「スリランカ」の意味・わかりやすい解説

スリランカ
Sri Lanka

正式名称 スリランカ民主社会主義共和国 Sri Lankā Prajathanthrika Samajavadi Janarajaya。
面積 6万5610km2
人口 2207万2000(2021推計)。
首都 スリジャヤワルデネプラコッテ (行政府所在地はコロンボ ) 。

インド半島の南東,インド洋上の島国。旧称セイロン Ceylon。ポーク海峡とマンナール湾によりインド半島と隔てられる。長径 438km,最大幅 225kmの島で,インド亜大陸と同じ陸棚上に位置し,かつては陸続きであったとみられる。中南部にピドゥルタラガラ山 (2524m) を最高峰とする山地があり,周辺に平野が開ける。年降水量 1300~5000mm。モンスーンの影響で山地の南西側に多く,北東部は乾燥地帯となる。古来ベッダ族が狩猟生活をしていたが,前 550年頃インドからシンハラ族が渡来,王国を築き,前3世紀頃の仏教の伝来とともに文明が栄えた。やがてインド南部からタミル族も侵入,北部にタミル族の王国が築かれるなど諸王国が盛衰。 1505年ポルトガル人が到来,次第に支配権を確立したが 1602年オランダ,1795年イギリスが占領,1802年のアミアンの和約で正式にイギリスの領有が決定。第2次世界大戦後シンハラ族による独立運動が高まり,1948年セイロンとして独立,イギリス連邦の一員となった。 1972年に共和国となり国名をスリランカ共和国と改称,さらに 1978年に現国名に改称した。古来シナモン,宝石,ビンロウジ (ビンロウの果実) の輸出が盛んであったが,1840年代はコーヒー,1880年代から茶,ゴムの生産が経済的支柱となり,コロンボは国際的寄港地として発展。現在は茶,宝石,ココナッツ製品が輸出の大半を占める。良質の黒鉛を産するほか石灰石,チタン,宝石類などの地下資源があるが豊かではない。工業は食品加工,繊維など軽工業の段階で,国家収入の半分以上は農業に頼る。このほか漁業も盛んで,観光にも力を入れている。住民の 70%以上がおもに仏教徒のシンハラ族,約 20%がヒンドゥー教徒のタミル族,約9%がイスラム教徒。人口は北部と南西部に集中。公用語はシンハラ語とタミル語。タミル族による反政府ゲリラ活動が絶えない。

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旺文社世界史事典 三訂版 「スリランカ」の解説

スリランカ
Sri Lanka

インド南東方にあるセイロン島を主島とする共和国。首都はスリジャヤワルダナプラコッテ(行政上の首都はコロンボ)
1972年5月,セイロンから改称。スリランカとは「光り輝く国」の意味。1948年の独立以後,保守的な国民統一党と革新的な自由党が交互に政権を担当してきたが,経済の停滞や社会主義化政策の推進をめぐって,政情は不安定である。1977年議院内閣制から大統領内閣制に代わり,78年国名をスリランカ民主社会主義共和国と改称。最大の問題は,多数派で仏教徒のシンハラ人(人口の74%)と少数派でヒンドゥー教徒のタミル人(人口の18%)の対立である。シンハラ人優先政策に反発するタミル人の分離独立運動が,1980年代にエスカレート。「タミル−イスラーム解放の虎(LTTE)」と政府軍との内戦解決の糸口は見えていない。1997年までの死者は約5万人とされる。なお,1988年からタミル語も公用語となっている。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「スリランカ」の解説

スリランカ
Sri Lanka

インドの南のインド洋上の島国。首都はスリ・ジャヤワルダナプラ・コーッテ。シンハラ人が約74%,タミル人が約18%(1997年)。前3世紀に仏教が伝えられ,シンハラ人を中心に国民の約70%が仏教徒。16世紀以降ポルトガルが,17世紀中葉からオランダが進出し,1815年にイギリスが植民地支配を完成。インドなどの独立運動に刺激され,1948年独立。統一国民党とスリランカ自由党が二大政党。78年憲法では議院内閣制をとるが,大統領の権限が強い。最大の政治問題は80年代以降顕著になったタミル人の分離独立闘争で,北部は政府軍との間で内戦状況が続いている。紅茶などのプランテーション作物栽培,観光などが重要産業である。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

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