日本歴史地名大系 「秋田郡」の解説
秋田郡
あきたぐん
「延喜式」(民部)出羽国管郡の項に「出羽ノ柵於
秋田村ノ高清水ノ岡
、号
之ヲ秋田城
、所
謂企治城即是也」と、
郡名の初見は「日本書紀」斉明天皇四年の記事に「夏四月、阿陪臣船師一百八十艘
、伐
蝦夷
、齶田・渟代、二郡蝦夷、望怖乞
降」とみえ、同五年の記事では齶田郡を飽田郡とも記している。ともに語源は明白でない。ただし齶田郡は権郡とも考えられ、支配の実態をうかがうことはできない。
和銅五年(七一二)出羽国が建置された。「続日本紀」天平五年(七三三)一二月二六日条に「出羽ノ柵ヲ遷シ置ク於秋田ノ村高清水ノ岡ニ
」とある。秋田村は
「日本後紀」延暦二三年(八〇四)一一月二二日条に「出羽国言、秋田城建置以来余年、土地
埆、不
宜
五穀
、加以孤
居北隅
、無
隣
相救
、伏望永従
停廃
、保
河辺府
者、宜
停
城為
郡、不
論
土人浪人
、以
住
彼城
者
編附
焉」とあり、この時初めて秋田地方は軍政から出羽国の行政機構に組み入れられ、秋田郡が設置された。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報