古代出羽国秋田城の司令官に由来する職制。平安初頭期から,国司の一員出羽介が秋田城務を兼ね,職制を出羽城介,秋田城司介,城介などと称するようになった。出羽介の城務兼任は官符,城務執行は蔵人所牒で,特別に任命。城務が蝦夷および外国貿易にも関知したからであろう。秋田城介と明記した初見史料例は,《陸奥話記》記載の平重成。前九年の役以後,城務は鎮守府将軍の兼務とされ,秋田城介補任は行われず,北奥羽の奥地の中世的郡郷制や蝦夷地の編成は,鎮守府,平泉を通じて推進された。1218年(建保6)安達景盛の城介補任以後,安達氏が代々この職を継承し,秋田城介の名称も定着。鎌倉期以後の秋田城介を名誉職的な空職とみなすのが通説であるが,中世的城務の存在を考える説もある。建武政府下では葉室光顕,室町幕府下では安東氏がこの職制に任命され,1575年(天正3)織田信忠,1605年(慶長10)秋田実季も補任されている。
執筆者:遠藤 巌
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
古代・中世の秋田城鎮衛(ちんえい)司令官。780年(宝亀11)鎮狄(ちんてき)将軍安倍家麻呂(あべのいえまろ)のとき、出羽介(でわのすけ)を城司と定めたことから始まり、出羽城介などともよぶ。980年(天元3)の城介平兼忠(たいらのかねただ)の任符が伝わる。その甥繁成(おいしげなり)も城介となり、以後城(じょう)氏を称す。『吾妻鏡(あづまかがみ)』は彼を初任者と誤認。1218年(建保6)安達景盛(あだちかげもり)が就任し子孫相承(う)け、南北朝期に葉室光久(はむろのみつひさ)が就任。天正(てんしょう)期(1573~1592)に織田信忠(おだのぶただ)も補任(ぶにん)。秋田安東(あんどう)氏も城介を称した。
[新野直吉]
『新野直吉著『古代東北史の人々』(1978・吉川弘文館)』
…用紙は厚手の鳥の子紙を用い,表裏に印刷し,装丁はおおむね粘葉(でつちよう)形を採用した。開版者としてとくに知られる秋田城介(あきたのじようのすけ)(安達泰盛,1231‐85)は,鎌倉執権北条氏の姻戚として勢力をもち,祖父景盛以来の縁故で高野山にはいり,その金剛三昧院(こんごうさんまいいん)は10万余石の扶持を封禄し,武家の愛護のもとに偉大な勢力をもって,開版事業にも力をつくした。現存するものでは1253年(建長5)刊《三教指帰(さんごうしいき)》が最も古い。…
※「秋田城介」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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