古代出羽国の北半に置かれた城柵。《続日本紀》によると733年(天平5)に,それまでおそらく庄内地方にあったと思われる出羽柵が,秋田村高清水岡に遷置されている。それが秋田城の前身と考えられているが直ちに秋田城となったかどうかは判然とせず,秋田城の厳密な創建年代はわからない。760年(天平宝字4)丸部足人解状に〈阿支太城〉とあり,また804年(延暦23)の出羽国の奏言〈秋田城建置以来四十余年〉とあわせ考えると,天平宝字年間(757-765)には,秋田城が築造されていたことが知られる。ところで,出羽柵が後の秋田城の地に移されて後,この地に出羽国府も置かれたものと考えられている。しかし,この地が北に偏しているため,その維持が困難であったらしく,宝亀年間(770-780)ごろから,国府を他所へ移す動きがあり,804年には,秋田城は停められ,秋田郡となった。これは施設としての秋田城の放棄ではなく,国府の移転を意味すると見られる。この地域が郡となった後も,秋田城は中心的施設として,維持され機能していたものと考えられる。830年(天長7)の大地震では,城の施設や付属寺院が大損害をこうむっている。さらに878年(元慶2)の夷俘の反乱では,秋田城は他の施設とともに焼き払われた。これらのことから,秋田城は,延暦以後も城としての体裁を失っていなかったものと思われる。平安時代には,出羽介が秋田城専当となり,おそらく庄内にあった国府と雄勝城およびこの秋田城が国を三つに地域区分するような形で出羽国を統治したものと考えられる。
秋田城の跡は,秋田市寺内地区にあり,雄物川の河口近くの,ほぼ標高40m級の丘陵上に立地している。かつては南北1km,東西1.5kmほどの土塁をめぐらした範囲が秋田城跡であろうとされていたが,土塁は中世以降のものであり,発掘調査で,東西・南北とも550mの規模で,北西部が自然地形の影響で一部欠けた形であることが判明した。外郭線は当初幅2mほどの瓦ぶきの築地で,後に掘立柱の塀に作りかえられている。内郭はまだ明らかになっていないが,かつての調査で,中央部分に柱列や築地と思われる痕跡が認められており,瓦も出土していることから内郭=政庁の存在も想定される。外郭線の造替えは9世紀半ば以降のこととされ,11世紀以降まで本遺跡が継続していた。
現在の秋田城跡の地が,出羽柵が遷置された〈秋田村高清水岡〉であることについては,〈秋田瓦〉〈高〉〈秋〉の陽刻瓦が出土することから,ほぼ間違いないとされてきたが,1978年の発掘で,外郭築地外側の南東部,鵜ノ木地区で井戸の中より天平6年の紀年のある木簡が発見された。出羽柵の移転先がこの地であったことがいっそう明らかになったのである。さらに同井戸の出土品には,天平勝宝5年(753)の調の木簡も含まれており,その性格から推して,ここが出羽国府であった一つの証拠とされている。
執筆者:桑原 滋郎
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秋田市寺内(てらうち)高清水(たかしみず)丘陵にあった、奈良・平安時代の城柵(じょうさく)。遺跡は1939年(昭和14)国の史跡に指定。733年(天平5)庄内(しょうない)平野から北進した出羽柵(いではのき)の後身で、出羽(でわ)国北部における政治、軍事の拠点。古代に秋田河といった雄物(おもの)川の河口部北岸にあたり、海路、内水路交通の便がある。遺跡の秋田城跡からは、天平(てんぴょう)6年(734)10月の紀年銘のある木簡(もっかん)も出土している。城名の初見は、『正倉院文書』では760年(天平宝字4)3月の「丸部足人解(わにべのたるひとのげ)」に「阿支太(あきた)城米」とあるもので、『続日本紀(しょくにほんぎ)』では780年(宝亀11)である。『日本後紀』延暦(えんりゃく)23年(804)11月条に「秋田城建置以来四十余年」とあり、天平宝字(ほうじ)年間(757~765)に秋田出羽柵が整備増強され城になったことが知られる。759年(天平宝字3)陸奥出羽按察使(むつでわあぜち)藤原恵美朝猟(えみのあさかり)が出羽雄勝(おかち)城と陸奥桃生(ものう)城を築営する際、一連の建設をしたものと推定できる。築城当時は出羽国府があったが、775年(宝亀6)政情不穏になり、国府は庄内に後退した。780年秋田城放棄論さえ出たが、鎮狄(ちんてき)将軍安倍家麻呂(あべのいえまろ)の判断により存続。878年(元慶2)の俘囚(ふしゅう)の乱では城内官舎、城櫓が多数破壊されたが、ただちに復興。秋田城介(あきたじょうのすけ)制のもと長く維持された。
[新野直吉]
『新野直吉著『古代史上の秋田』(1981・秋田魁新報社)』
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出羽国北部におかれた古代の城柵。秋田市寺内大畑にあり,雄物川河口東岸の高清水丘陵上に位置する。733年(天平5)に出羽柵(でわのさく)(現,山形県庄内地方)を秋田村高清水岡(たかしみずのおか)に移転。760年(天平宝字4)の丸部足人(わにべのたるひと)解状に「阿支太(あきた)城」とみえ,この頃までに改称された。外郭施設は,はじめ築地のち材木塀で,1辺550mの不整な多角形状。政庁は東西94m,南北77mで,はじめ築地のち材木塀で区画され,正殿(せいでん)や広場を配する。当城におかれた出羽国府は804年(延暦23)に廃されたが,城は北方支配の拠点としてその後も機能した。830年(天長7)には震災にあい,878年(元慶2)の俘囚(ふしゅう)の反乱では多くの官舎が焼損したものの,のち復旧された。平安時代には出羽介が秋田城専当となり,のち秋田城介などと称した。城跡は国史跡。
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