稲毛庄(読み)いなげのしよう

日本歴史地名大系 「稲毛庄」の解説

稲毛庄
いなげのしよう

高津たかつ区・中原なかはら区一帯に広がる荘園。平安時代末期から藤原氏摂関家領として現れ、承安元年(一一七一)の武蔵国稲毛本庄検注目録(県史一)が残されている。この目録は冒頭の一部だけの断簡で、これによれば当時の田数は現作田二六二町六反一八〇歩、荒田一町二反の総計二六三町八反一八〇歩。うち平治元年(一一五九)の検注で定められた本田が二〇六町九反三〇〇歩、年貢を免除される除田一七町五反を差引いた定田が一八九町五反、定田にかかる年貢は一町あたり八丈絹二疋の割で三七九疋、新田五五町六反二四〇歩のうち承安元年に初めて新田と認められた分が三五町五反六〇歩、新田からの除田一三町八反のうち神田が一町二反であったことがわかる。神田の内訳は稲毛郷鎮守二所で六反、小田中こだなか郷・井田いだ郷鎮守はそれぞれ三反ずつで、荘名ともなった稲毛郷が中心的集落であったらしい。三つの郷の名がすべて稲や田と関係深いことからも、当庄は水稲耕作を主とした地域で、しかも当時は新田が盛んに開発されていたことが知られる。なお上の本田からの除田のなかには中司の佃三町五反、下司の免田二町五反、兵仕の免田一町五反、夫領の免田一町、皮古造かわごづくりの免田五反が含まれている。荘園の管理者たる荘官として中司・下司の置かれていたことや、兵士役を勤めたり、動員された人夫を指揮したりする下級荘官の兵仕や夫領と並んで、手工業者たる皮籠作りがとくに年貢免除の特権を与えられていたことが注目される。

ところでこれに先立って長寛二年(一一六四)七月一八日の末成等押取雑物注進状(陽明文庫蔵「兵範記」仁安二年秋巻裏文書)によれば当庄の荘官と思える大江某なる人物が、同じく在地の有力者らしい末成・為次らによって荘の年貢や自分の私的収益を大量に奪い取られたと本所に申立てている。末成によって荘民から徴収されたのが年貢分では准八丈絹二一二疋二丈(うち稲毛一八〇疋二丈、小田中三二疋)、馬六疋の代絹一五疋四丈、白布四六反の代一一疋四丈、見八丈絹一二八疋四丈、私的収益分では町別弁の作料布が四六〇反一丈二尺(うち稲毛三七〇余反、小田中八〇余反)、得物代の布が二〇五反三丈四尺(うち稲毛一七五反余、小田中三〇反二丈)、見籾一四石二斗六升一合(うち稲毛八石五斗六升一合、小田中五石七斗)、また末成・為次二人によって奪取された応保二年(一一六二)の私的収益分は籾一四九石九斗六升四合、稲七〇〇束、馬二疋、女四人(字富田女・字小松女ほか)、童一人(字小次郎丸)、蚕箙三〇〇枚という大量に上る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報