日本歴史地名大系 「稲毛庄」の解説
稲毛庄
いなげのしよう
現
ところでこれに先立って長寛二年(一一六四)七月一八日の末成等押取雑物注進状(陽明文庫蔵「兵範記」仁安二年秋巻裏文書)によれば当庄の荘官と思える大江某なる人物が、同じく在地の有力者らしい末成・為次らによって荘の年貢や自分の私的収益を大量に奪い取られたと本所に申立てている。末成によって荘民から徴収されたのが年貢分では准八丈絹二一二疋二丈(うち稲毛一八〇疋二丈、小田中三二疋)、馬六疋の代絹一五疋四丈、白布四六反の代一一疋四丈、見八丈絹一二八疋四丈、私的収益分では町別弁の作料布が四六〇反一丈二尺(うち稲毛三七〇余反、小田中八〇余反)、得物代の布が二〇五反三丈四尺(うち稲毛一七五反余、小田中三〇反二丈)、見籾一四石二斗六升一合(うち稲毛八石五斗六升一合、小田中五石七斗)、また末成・為次二人によって奪取された応保二年(一一六二)の私的収益分は籾一四九石九斗六升四合、稲七〇〇束、馬二疋、女四人(字富田女・字小松女ほか)、童一人(字小次郎丸)、蚕箙三〇〇枚という大量に上る。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報