稲沢村(読み)いなざわむら

日本歴史地名大系 「稲沢村」の解説

稲沢村
いなざわむら

[現在地名]白沢村稲沢

現白沢村の東端に位置し、東は初森はつもり(現岩代町)富沢とみざわ(現三春町)。「相生集」は村名について「稲穀の多なりという意にてこも祝言なるべし」と記す。天正一一年(一五八三)三月五日の大内能登領知判物(藤原家文書)に「春日・八幡・にわたり三ケ所の地、田壱貫文の所」とみえ、村内の三ヵ所を一騎の役を勤め出陣した当地春日神社祠官伊藤相模守に与えた。字高野こうやに高野館跡があり、もと蓬田壱岐守の居館であったといわれるが、天文年間(一五三二―五五)には田村清顕の臣菊地氏の居館となった。字滑津なめつにある那目津なめつ館跡は大内備前守定綱の抱城、字桑田くわたには八幡はちまん館跡がある(「相生集」など)

文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に稲沢とみえ、高一千四〇〇石余。享保二一年(一七三六)の稲沢村大概帳(白沢村史)によると古検高一千五四三石余、うち一一三石余は新田畑高。


稲沢村
いなざわむら

[現在地名]協和町稲沢

さかい村から角館かくだて(現角館かくのだて町)に通ずるつなぎ街道沿いの村。周囲は山地で囲まれ耕地も多くはない。心像こころやり(現西仙北町)より山越え往来が多かった。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図によれば一九七石。宝永二年(一七〇五)の仙北郡村々御黒印高帳(秋田県庁蔵)には、本田高一六七石余、新田高二八五石余、合計高四五二石余(当高三四六石余)とある。「六郡郡邑記」によれば家数七七軒、支郷として、落合おちあい村七軒、上野うえの村九軒、本郷野ほんごうの村六軒、水沢みずさわ村三〇軒、屋鋪やしきさわ村七軒があった。寛政六年(一七九四)の六郡惣高村附帳には、当高一八三石余はすべて給分とある。


稲沢村
いなざわむら

[現在地名]那須町稲沢

沼井ぬまのい村の南に位置し、おもな集落は北西から南へ南東流する那珂川と東部を南流する同川支流くろ川とがそれぞれつくる小段丘、およびその間の丘陵麓に発達。南東は河田かわだ(現黒羽町)、南は寒井さぶい(現同上)。黒川に沿って関街道が通る。鎌倉時代、那須頼資の五男五郎資家が当地を分知されて居館を築き、稲沢氏を称したという(「寛政重修諸家譜」など)。文明一九年(一四八七)准后道興は「いな沢の里」を過ぎ、黒川、余笹よささ川を渡って陸奥白河関へ向かっている(廻国雑記)。天正一八年(一五九〇)大関氏が豊臣秀吉から安堵された所領のうちに村名がみえ、高八八石余(「黒羽藩領知高書上」宇都宮大学附属図書館蔵)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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