白沢村
しらさわむら
[現在地名]矢巾町白沢
室岡村の東に位置し、東は北郡山村、南は太田村、北は南矢羽場村。北部は比高約二〇―三〇メートルの森山とよばれる丘陵地。正保国絵図に村名がみえ、高一〇〇石余。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付では蔵入高五三五石余、七ヵ年平均の免三ツ四分三厘。元禄十郡郷帳による〆高は田方四七七石余・畑方八五石余。「邦内郷村志」では蔵分四九九石余・給分一一七石余、家数五〇、馬七二。享和三年(一八〇三)の仮名付帳では家数七四、枝村の油田二・石蔵七・狐崎九・盛一六・谷地六・高畑四・土居場六・
森六・細屋五・新田九・羽下四、ほか「邦内郷村志」に九曜坊・熊田がみえる。
白沢村
しらさわむら
面積:二八・二八平方キロ
沼田盆地の東端に位置し、北と東は一〇〇〇メートル級の山地。北は川場村、東・南は利根村、西は沼田市。利根村との南境を片品川が西流、村内北東部に発した白沢川を合せる。また近世に沼田城内・城下の上用水として重要な役割を担った白沢用水の取水源が白沢川上流にあり、村内を貫流する。主要交通網は国道一二〇号。同国道の前身は沼田城下に発する会津街道で、城下から高平村に至り、ここで二手に分れた。一は高平村から北東栗生峠を越え大原村(現利根村)に至る。
白沢村
しらさわむら
面積:四八・四〇平方キロ
阿武隈高地の西縁に位置し、東は岩代町、西は本宮町・大玉村、南は郡山市・田村郡三春町、北は二本松市。村内の最高点は東端にある四三七・一メートルの三角点(石塚山)、最低点は北西端、阿武隈川沿いの一九八メートルの地点。村全体は二〇〇―三〇〇メートルの低丘陵が浅い谷と組合さり、起伏の続く地形をなしている。東部白岩地区の白岩川は村の南西に流れ、郡山市西田町鬼生田で、西部和田・糠沢地区の仲川は南流して阿武隈川に注ぐ。村の総面積に対する水田比は一六パーセント、畑地比は一八パーセント。
白沢村
しらさわむら
[現在地名]大館市白沢
大館盆地北端部、南流する下内川中流域に位置し、村内を羽州街道が縦断。山地が多い。北は長走村を過ぎれば弘前藩領との境の矢立峠。
「梅津政景日記」元和四年(一六一八)一〇月一七日条に「大館よりしら沢まで参着申候」とある。「柞山峯之嵐」には「慶長元年羽立高一石七八斗、観音堂より移る、同八年渋江政光、梅津政景検地なすと云」とあり、「六郡郡邑記」にも「慶長八年羽立村、五十七軒」とある。正保四年(一六四七)の出羽一国絵図では五七石とある。
白沢村
しらさわむら
[現在地名]伊南村白沢
宮沢村の南東、伊南川右岸に位置し、沼田街道に沿って集落が連なる。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に「白沢 百十五石四斗」とある。慶長二年(一五九七)の藤三郎倉入在々高物成帳(福島県史)でも同高で、免三ツ六分。寛文五年(一六六五)の伊南郷村々改帳(馬場家文書)によれば高一三〇石余、免四ツで年貢は金納。田三町六反余・畑八町六反余。
白沢村
しらさわむら
[現在地名]阿久比町白沢
阿久比谷の最北部を占め、八幡神社古記(八幡神社蔵)によると養老年間(七一七―七二四)に正保がこの地を開いたので正保新田と称した。北原天満宮鎮座記(同社蔵)に、天暦九年(九五五)英比郷の地頭菅原雅規は西之沢の白鷺数百羽をめでて沢の名を白沢と称したことにちなむと伝える。「尾張志」は菅原道真左遷のとき、その子が英比五郷を開き北原天神を建て、当時村人が白袴を着用し御子を英比殿と称したので英比五郷の民を白袴と俗称したとしている。北原天神社は明治の廃仏毀釈により八幡神社に合祀された。
「寛文覚書」によれば、概高四四九石余、田地二五町四反九畝余、畑地三町二反三畝余、戸数四一、人口二四二。
白沢村
しらさわむら
[現在地名]河内町白沢
長峰新田村の南、鬼怒川右岸に位置し、中央を奥州街道が通る。同街道白沢宿を南隣上岡本村と形成、鬼怒川には渡船(冬期は架橋)が置かれる。慶長五年(一六〇〇)六月の会津上杉攻めの際、徳川秀忠の先発結城秀康は当地に着陣、丘陵地帯に陣場を設け丸太で砦を築いている(「村柄書上帳」宇加地太美雄文書)。
白沢村
しらさわむら
[現在地名]西目屋村白沢
大秋川にその支流白沢川が合流する谷間に位置し、東は杉ヶ沢村、北東は百沢村(現岩木町)、南は大秋村に接する。
貞享元年(一六八四)の郷村帳に鼻和庄の寛文四年(一六六四)以降の新田として村名がみえ、高六三・三石とある。貞享四年の検地帳によれば、村高は六三・三〇四石、うち田方四八・九一三石、畑方一四・三九一石。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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