日本大百科全書(ニッポニカ) 「空谷明応」の意味・わかりやすい解説
空谷明応
くうこくみょうおう
(1328―1407)
南北朝時代の臨済(りんざい)宗夢窓(むそう)派の僧。別号は若虚(じゃくきょ)。近江(おうみ)国(滋賀県)浅井郡の人。9歳で同国宏済寺の志徹(してつ)に随(したが)って出家し、臨川寺の無極志玄(むごくしげん)(1282―1359)の門に学び、のち天竜寺の夢窓疎石(そせき)に師事する。また東陵永璵(とうりょうえいよ)、中巌円月(ちゅうがんえんげつ)、蒙山智明(もうざんちみょう)(1277―1366)らに参じ、近江金剛寺、美濃(みの)(岐阜県)天福寺に住したのち、足利義満(あしかがよしみつ)の請いにより1384年(元中1・至徳1)等持(とうじ)寺に、ついで1386年相国(しょうこく)寺に昇住した。1394年(応永1)火災後の相国寺の復興にあたり、その間に後小松(ごこまつ)天皇より仏日常光(ぶつにちじょうこう)国師の号を特賜された。さらに天竜寺にも出世し、応永(おうえい)14年正月16日示寂。五山文学者としても著名で、『語録』『臨済録直記』などの著がある。
[石川力山 2017年6月20日]