南北朝時代から室町初期の臨済(りんざい)宗の僧。初名は至道。中正子、東海一漚子(いちおうし)と別称した。鎌倉の人。寿福寺で出家し、円覚(えんがく)寺の東明慧日(とうみょうえにち)(1272―1340)、永平寺の義雲(ぎうん)(1253―1333)、南禅寺の虎関師錬(こかんしれん)らに歴参。1325年(正中2)入元、百丈山の東陽徳輝(とうようとっき)(生没年不詳)に師事し嗣法(しほう)した。1332年(正慶1・元弘2)帰国、1339年(暦応2・延元4)上野(こうずけ)に吉祥寺(きちじょうじ)を開創。万寿寺、建仁寺、等持寺、建長寺などに歴住し、1375年正月8日示寂。仏種慧済(ぶっしゅえさい)禅師と諡(おくりな)される。初期の代表的五山文学僧で、語録のほかに『東海一漚集』『中正子』『藤陰瑣細(とういんささい)集』『蒲室集註解(ぼしつしゅうちゅうかい)』などの詩文集、著述がある。
[石川力山 2017年9月19日]
南北朝期の臨済宗の僧。相模(神奈川県)の生れ。中正子とも称し,俗姓は土屋氏。諡号(しごう)は仏種慧済禅師。はじめ密教を学び,ついで寿福寺の嶮崖(けんがい)巧安,円覚寺の来朝僧東明慧日に参じ,さらに来朝僧霊山(りんざん)道隠や虎関師錬に師事した。一方14歳ころから詩文を作り,また中国語の修得につとめた。1324年(正中1)入元し,古林清茂(くりんせいむ),東陽徳輝(とうようてひ)などに参じ,在元8年を経て32年(元弘2)帰国した。大友貞宗・氏泰親子の帰依を受け,上野(群馬県)利根荘に創建された吉祥寺の開山に迎えられ,このとき東陽徳輝(大慧派)の法を継ぐことを表明している。相模,豊後,京都などに足跡を残し,建仁寺に退居した。同寺には中巌の木像がある。語録のほかに詩文集《東海一漚(とうかいいちおう)集》《東海一漚集余滴》,随筆集として《文明軒雑談》などがあり,五山文学発展の基を築いた。
執筆者:竹貫 元勝
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1300.1.6~75.1.8
鎌倉後期~南北朝期の禅僧。別号は東海一漚子(いちおうし)など。俗姓土屋氏。鎌倉生れ。16歳で曹洞宗宏智派の東明慧日(とうみょうえにち)の会下(えげ)に入り,1325年(正中2)渡元。東陽徳輝に参禅し,32年(元弘2)帰国。翌年,「原民」「原僧」を著して後醍醐天皇に経綸を進言。39年(暦応2・延元4)上野国利根荘吉祥寺建立に際し臨済宗大慧派の東陽徳輝の法を嗣ぐことを表明,以後宏智派の迫害を受けた。42年(康永元・興国3)再び渡元を企てたがはたせなかった。諡号は仏種慧済禅師。漢詩文集「東海一漚集」,自記年譜「中巌和尚自歴譜」。
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…【川口 久雄】
【中世】
中世の漢文学の主流は,何といっても五山禅僧の作品である。鎌倉時代の作者には虎関師錬(こかんしれん),雪村友梅(せつそんゆうばい),中巌円月(ちゆうがんえんげつ)がある。虎関師錬は一山一寧(いつさんいちねい)より学んだので,やや古風な作風を有するが,雪村は在元22年の長きにわたり,中国人の文脈句法を体得した人であり,中巌円月は在元の期間は雪村友梅ほど長くないが,その文脈句法の体得は雪村以上で,とくに四六文の学習に力を注いだ人である。…
※「中巌円月」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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