天竜寺(読み)テンリュウジ

デジタル大辞泉 「天竜寺」の意味・読み・例文・類語

てんりゅう‐じ【天竜寺】

京都市右京区嵯峨にある臨済宗天竜寺派の大本山。山号は霊亀山。正称は、天竜資聖禅寺。延元4=暦応2年(1339)吉野の行宮で没した後醍醐天皇菩提ぼだいをとむらうため、足利尊氏あしかがたかうじ亀山殿の地に創建。開山は夢窓疎石京都五山の第一位。平成6年(1994)「古都京都の文化財」の一つとして世界遺産文化遺産)に登録された。

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日本歴史地名大系 「天竜寺」の解説

天竜寺
てんりゆうじ

[現在地名]楠町大字奥万倉 正楽寺

万倉まぐら盆地の北、正楽寺しようらくじの集落にあり、南西に流れる今富いまどみ川の左岸にあたる。曹洞宗で蓬莱山と号し、本尊は千手観音

「注進案」によれば初め正楽寺と称し千手観音が安置してあったのを、貞和四年(一三四八)厚東武村が祈祷所として諸堂を建立、南禅なんぜん(現京都市左京区)末となり臨済宗蓬莱山正楽寺遍正院とした。厚東氏没落後、観音堂のみ残ったが、明応三年(一四九四)末富重泰が周防国仁保にほ(現山口市)瑠璃光るりこう寺の住僧桃岳瑞見を開山として再建し、蓬莱山天竜寺とした。しかし再度荒廃。


天竜寺
てんりゆうじ

[現在地名]松岡町春日

山号は清涼山。曹洞宗。本尊釈迦如来。松岡藩主松平氏の菩提寺で、承応二年(一六五三)松平昌勝が祖母清涼院の菩提のため創建した。開山は越前松平氏菩提所となっていた江戸品川しながわ(現東京都品川区)天龍寺三世の斧山宝。享保三年(一七一八)松平氏より二〇〇石の寺領を寄進されたという。塔頭に本涼ほんりよう院があった。松平昌勝・同側室実相院などの石塔がある。また門前には芭蕉塚があるが、元禄二年(一六八九)八月、松尾芭蕉が天竜寺長老を訪ねたという「おくのほそ道」の記述によって建てられたもの。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「天竜寺」の意味・わかりやすい解説

天竜寺(京都市)
てんりゅうじ

京都市右京区嵯峨(さが)天竜寺芒ノ馬場(すすきのばば)町にある臨済(りんざい)宗天竜寺派の大本山。霊亀山(れいきざん)天竜資聖(しせい)禅寺と号する。本尊は釈迦如来(しゃかにょらい)。京都五山の第一。1339年(延元4・暦応2)、後醍醐(ごだいご)天皇が吉野行宮(あんぐう)で崩御するや、足利尊氏(あしかがたかうじ)・直義(ただよし)の兄弟が夢窓疎石(むそうそせき)の勧めによって、後醍醐天皇の冥福(めいふく)を祈るために創建した寺であり、疎石を開山第1世とする。

 この地は、檀林(だんりん)皇后(嵯峨天皇の后(きさき)橘嘉智子(たちばなのかちこ))の創建で京都最初の禅学講演の寺とされる檀林寺(836年ころに完成)の故址(こし)であった。同寺は平安中期の一条(いちじょう)天皇のころには完全に廃亡してしまったが、鎌倉前期の建長(けんちょう)年間(1249~56)に後嵯峨(ごさが)上皇が新たに仙洞(せんとう)御所亀山(かめやま)殿を造営した。この離宮は、そののち亀山天皇(第90代)、後醍醐天皇(第96代)と、とびとびに大覚寺統の天皇に伝領されるに至る。ときに疎石が後醍醐天皇崩御の報を知るや、天皇の菩提(ぼだい)を弔うための禅苑(ぜんえん)創建を尊氏・直義兄弟に勧め、光厳(こうごん)上皇の勅許を得、天皇にゆかりの深い亀山殿に創建の運びとなった。疎石は天竜寺造営の資金を得るため、1341年(興国2・暦応4)直義と諮って元(げん)に貿易船を遣わしたが、これが有名な天竜寺船である。初め暦応(りゃくおう)寺と称したが、41年に光厳上皇が霊亀山天竜資聖禅寺と改称せしめた。翌42年(興国3・康永1)五山十刹(じっさつ)の座位改定に伴い、五山の第二位に列せられた。この五山の位次は、尊氏没後の1358年(正平13・延文3)の改編では第二位、さらに3代将軍義満(よしみつ)の86年(元中3・至徳3)には第一位に列せられて、鎌倉の建長寺と同格とされた。このように足利氏の外護(げご)がすこぶる厚く、足利氏滅亡とともに衰え、またしばしば兵火にかかった。江戸時代にも徳川家康は朱印寺領1720石を与えている。1864年(元治1)には幕末の動乱に巻き込まれて全山を焼亡。76年(明治9)臨済宗各派とともに独立し天竜寺派と公称し、住持を管長とした。現在の堂舎はほとんどが明治以後の造営で、門のみがわずかに江戸初期のおもかげを伝えている。なかでも勅使門はもと伏見(ふしみ)城にあったとされ、細部に桃山様式を伝えている。塔頭(たっちゅう)は境内に慈済(じさい)院・三秀(さんしゅう)院・松巌(しょうがん)寺・妙智(みょうち)院・寿寧(じゅねい)院・弘源(こうげん)寺・宝厳(ほうごん)院・永明(えいみょう)院・等観(とうかん)院、境外に臨川(りんせん)寺・金剛(こんごう)院・宝寿(ほうじゅ)院がある。寺宝には夢窓国師像3幅、観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)像、木造釈迦如来像など国重要文化財を多く蔵する。また、妙智院には夢窓国師像(国重要文化財)と策彦周良(さくげんしゅうりょう)の入明(にゅうみん)記録類を蔵する。寺域は嵐山(あらしやま)と相対する景勝の地で、庭園(史跡・特別名勝)は疎石のつくった創建当時のものが一部残っている。1994年(平成6)、世界遺産の文化遺産として登録された(世界文化遺産。京都の文化財は清水寺など17社寺・城が一括登録されている)。

[平井俊榮]

『奈良本辰也監修『天竜寺』(1978・東洋文化社)』『『古寺巡礼 京都4 天龍寺』(1976・淡交社)』


天竜寺(埼玉県)
てんりゅうじ

埼玉県飯能(はんのう)市にある天台宗の寺。山号は大鱗(だいりん)山雲洞院。本尊は子(ね)の聖大権現(ひじりだいごんげん)で、子の権現(子ノ権現)と通称される。紀伊(きい)国(和歌山県)の子の聖(子の年、子の月、子の日、子の刻に降誕)が比叡山(ひえいざん)、出羽(でわ)三山などで修行したのちこの地を訪れたおり、悪鬼が現れて放火したが、聖はやけどを負いながら祈念すると、天竜が現れ豪雨を降らせて火を消し、十一面観音(かんのん)に変じて消え去ったという。弟子の恵聖が師の遺誓を受けて堂宇を建立して開山、自刻の子の聖大権現を本尊として祀(まつ)った。火難除(よ)け、足腰の病に霊験(れいげん)あらたかとされて信者も多い。竜鱗(りゅうりん)石、禁裡(きんり)御贈経、大日如来(だいにちにょらい)像など寺宝多数を蔵する。毎年4月10日が子の権現の縁日。

[中山清田]

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改訂新版 世界大百科事典 「天竜寺」の意味・わかりやすい解説

天竜寺 (てんりゅうじ)

京都市右京区嵯峨にある臨済宗天竜寺派の総本山。正称を霊亀山天竜資聖禅寺といい,名勝嵐山の中心的な寺院。京都五山の一つ。1339年(延元4・暦応2)足利尊氏が夢窓疎石のすすめによって,吉野で亡くなった後醍醐天皇の冥福を祈るため,北朝の光厳上皇の院宣を得て建立に着手したのが起源である。尊氏は多くの荘園を,北朝は売官による成功(じようごう)の収益を,それに室町幕府は天竜寺船を元に派遣してその貿易利益を当寺に寄せ,造営費用にあてた。1343年(興国4・康永2)山門,法堂(はつとう),寮舎が建立され,翌年天皇の霊廟が完成し,45年(興国6・貞和1)後醍醐天皇七周忌の年に落慶法会が営まれている。創建当初の寺域は,後嵯峨天皇が造営して後醍醐天皇に伝領された離宮亀山殿を中心に,東は釈迦堂大路,西は亀山,南は嵐山,北は法金剛院に及んで,すべて36町余,現寺地の10倍以上の広さであった。夢窓派の拠点として室町前期が全盛期で,1342年五山第2位に列し,その後第1位にも列した。また五山版と呼ばれた禅宗関係書籍を盛んに出版して文学史上でも大いに貢献したが,室町期だけでも6回も火災にかかり,中世末には寺勢も衰え,多くの寺領も失った。近世になって寺領1720石,伽藍も復興したが,1864年(元治1)の禁門の変の際,兵火によって全焼し,その後の再興は昭和初年までかかった。塔頭(たつちゆう)は全盛期には100余寺,現在は境内に松巌院寺,慈済院,弘源寺,三秀院,妙智院,寿寧院,等観院,永明院,宝厳院,境外に臨川(りんせん)寺,金剛院,宝寿院がある。
執筆者:

境内の諸建築は明治以降の再建であるが,方丈の庭園は開山夢窓疎石の作庭になり,創立当初の姿を伝えている。曹源池の中央には鋭い立石を組んで岩島を構成し,背後には豪快な滝口を組み,前に石橋を渡すなど,峻厳な禅院らしさがうかがえる。夢窓疎石は各地の寺院で作庭しているが,なかでも当寺のものは西芳寺庭園とならんで著名である。寺宝のうち《応永鈞命絵図》(重要文化財)は室町期の地図として史料的価値が高い。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「天竜寺」の意味・わかりやすい解説

天竜寺【てんりゅうじ】

京都市右京区嵯峨にある臨済宗天竜寺派の大本山。本尊釈迦如来。足利尊氏が後醍醐天皇の冥福を祈って,夢窓疎石を開山として開創。天竜寺船で得た利を資とし,1345年完成。数度の火災にあい,現在の建物は明治期の建築であるが,方丈背後の庭園(史跡・特別名勝)は当初の原型を残し,幽雅な趣のある名園。1994年世界文化遺産に登録。
→関連項目足利義澄右京[区]大枝山関(大江山関)京都[市]京都五山国富荘古都京都の文化財(京都市,宇治市,大津市)嵯峨村櫛荘横江荘鹿王院

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「天竜寺」の解説

天竜寺
てんりゅうじ

京都市右京区にある臨済宗天竜寺派大本山。正式には霊亀山天竜資聖禅寺。開山は夢窓疎石(むそうそせき)。足利尊氏・直義(ただよし)兄弟が後醍醐天皇の菩提を弔うために建立。1339年(暦応2・延元4)に建立が許可され,43年(康永2・興国4)仏殿・山門・法堂などが完成した。寺地は嵯峨天皇の皇后橘嘉智子が承和年間(834~848)に営んだ檀林寺の跡地で,のち後嵯峨法皇が亀山殿を造営し,後醍醐天皇が相続していた。1386年(至徳3・元中3)には五山の第一位となった中世禅宗寺院の代表的な寺。大方丈前の庭園は夢窓疎石の作庭と伝えられ,国特別史跡・特別名勝。「夢窓疎石像」「観世音菩薩像」(ともに重文)ほか多くの文化財がある。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「天竜寺」の意味・わかりやすい解説

天竜寺
てんりゅうじ

京都市右京区嵯峨にある臨済宗天竜寺派大本山。霊亀山と号す。京都五山の一つ。興国6=貞和1 (1345) 年に足利尊氏が後醍醐天皇の追善供養のために建立した。夢窓疎石 (むそうそせき) の開山。同寺造営資金調達のため元との貿易を企て天竜寺船を派遣した。以後同寺はたびたび火災にあい,現在の堂宇は明治の中頃に峨山昌禎らが再建したもの。 1876年に独立して一派の本山となった。

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旺文社日本史事典 三訂版 「天竜寺」の解説

天竜寺
てんりゅうじ

京都市右京区嵯峨にある臨済宗天竜寺派の本山。京都五山の一つ
足利尊氏・直義兄弟が後醍醐 (ごだいご) 天皇の冥福を祈るために建立。開山は夢窓疎石 (むそうそせき) で,1345年に落成。その間尊氏は造営費を得るため,元に天竜寺船を派遣した。夢窓疎石作の方丈の庭園は有名。

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世界大百科事典(旧版)内の天竜寺の言及

【大枝山関(大江山関)】より

…その後,商業・交易が盛んになるにつれ,大枝山関でも関銭の徴収が行われるようになり,1423年(応永30)には室町幕府が同関を通過する諸物資にかける関銭の額を定めている。当時,関を管理したのは嵯峨野の天竜寺。その後,戦国期に入っても大江山口関のことが文書に見えている。…

【京都五山】より

鎌倉五山に対し,京都にある臨済宗の大禅刹,すなわち南禅寺・天竜寺・相国(しようこく)寺・建仁寺・東福寺・万寿寺をいう。中国南宋代の五山官寺制度が,日本に移植されたのは鎌倉時代末期のことで,はじめは建長寺・円覚寺など鎌倉の大禅刹をもって五山としていた。…

【天竜寺船】より

…南北朝時代,天竜寺造営のため室町幕府が元(げん)に派遣した貿易船。当時は造天竜寺宋船とよばれた。…

【松岡[町]】より

…町域には大規模な古墳群があり,東隣する永平寺町との境にある手繰ヶ城山(てぐりがじようやま)古墳(史)は全長128m余の前方後円墳。町の中心にある曹洞宗天竜寺は松平昌勝の創建で,《おくのほそ道》の旅の途次,松尾芭蕉も訪れている。京福電鉄が通じる。…

【夢窓疎石】より

…1333年(元弘3)鎌倉幕府滅亡直後,再び後醍醐天皇の招請により南禅寺に再住した。建武新政府の瓦解後は,足利尊氏・直義兄弟の厚い帰依を受け,南北争乱に戦死した武士の霊を慰めるため,全国に安国寺および利生塔の建立をすすめるとともに,後醍醐天皇の追善のための天竜寺(初め暦応(りやくおう)寺)造営にあたり,その開山第1祖となった。さらに北朝の光厳・光明両院の帰依も受け,南北朝の融合や,尊氏兄弟の不和の調停にも活躍した。…

※「天竜寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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