( 1 )中国の北宋から明にかけての禅林の動向に対応、連動する形で展開した。平安期の漢文学からの影響は希薄で、禅宗寺院に招かれて来日した中国の禅僧が興隆の素地を形成した。特に、一山一寧の豊かな素養と知識が与えた影響は多大で、虎関師錬、雪村友梅、龍山徳見も一山一寧に師事している。
( 2 )一方、雪村友梅、龍山徳見らの日本の禅僧が進んで中国の禅林で学んだことも重要であった。その後、中巖円月、義堂周信、絶海中津(ぜっかいちゅうしん)らによって五山文学は活況を呈する。代表作品に中巖円月の「東海一漚集(とうかいいちおうしゅう)」、義堂周信の「空華集(くうげしゅう)」、絶海中津の「蕉堅稿(しょうけんこう)」、一休宗純の「狂雲集」などがある。
( 3 )五山文学は創作とともに古典籍研究をも内包していたが、応仁の乱後、創作が衰えを見せるなか、古典籍、特に儒教の典籍の研究はむしろ盛んになり、江戸時代の儒教、漢学勃興のもとをなした。
五山禅林において行われた文学で、漢詩文を表現の手段とする。鎌倉時代から江戸時代の初期にかけて膨大な数の作品がつくられたが、もっとも盛んであったのは南北朝時代から室町時代の前期にかけてである。
五山とは、五つの臨済(りんざい)宗の大寺院を意味し、幕府の定めた寺格の最上位を占めるものである。五山の寺数とその序列はときによって変動しながら、1386年(元中3・至徳3)にほぼ最終的に次のように決定した。五山第一から第五まで、鎌倉では建長寺・円覚(えんがく)寺・寿福寺・浄智(じょうち)寺・浄妙寺。京都では天竜(てんりゅう)寺・相国(しょうこく)寺・建仁(けんにん)寺・東福寺・万寿(まんじゅ)寺の各5寺で、この鎌倉五山、京都五山の10寺の上に南禅寺が置かれた。以上の11か寺を五山(叢林(そうりん))と称する。五山文学というとき、この五山制度内の寺院を活躍場所とした禅僧の文学に限る場合があるが、五山制度外の禅寺をも含んだ中世の禅林全体の文学を概称するのが穏当である。
[中本 環]
五山文学の表現手法は、いわゆる和文によらず、漢詩・漢文の形をとっている。作者はすべて禅僧であり、読者(享受者)もまた、ごく一部の貴族や高級武士を除いては、禅林内部の人たちであった。ここに他の文学世界と異なる独自の世界を形成した原因がある。作品の内容は、入院(じゅえん)・上堂(じょうどう)・秉払(ひんぽつ)・陞座(しんぞ)などの法語類から、頌偈(じゅげ)・賛などの宗教的な韻文、さらには文学的な詩文をも含むという、雑多な幅広い様相をみせている。宗教色の濃いものから、ほとんどその欠落したものまで広く存在するのである。これらはしかし、すべて五山文学として総括する。
[中本 環]
五山文学の萌芽(ほうが)は、中国大陸から渡来した大休正念(だいきゅうしょうねん)、無学祖元(むがくそげん)、一山一寧(いっさんいちねい)らの来日僧によってもたらされた。大陸禅林における文筆尊重の風が移植されたのである。これに加えて、求法(ぐほう)の情熱厚い留学僧たちが、大陸の宗教・教養・知識を持ち帰り、ここにわが国の五山文学は出発する。
五山文学隆盛期の双璧(そうへき)と称されるのは、義堂周信(ぎどうしゅうしん)(1325―88)と絶海中津(ぜっかいちゅうしん)(1336―1405)であるが、彼らはともに大陸の人たちにも引けをとらぬ文章力をもっていた。義堂の詩文集『空華集(くうげしゅう)』、絶海の『蕉堅藁(しょうけんこう)』はそれぞれ明(みん)人から序をもらい、詩の技法・作風を嘆称されている。彼らに先んずる優れた詩僧としては、『岷峨集(びんがしゅう)』の雪村友梅(せっそんゆうばい)、『済北集(せいほくしゅう)』の虎関師錬(こかんしれん)、『東海一漚集(とうかいいちおうしゅう)』の中巌円月(ちゅうがんえんげつ)らがいる。
義堂、絶海以降のおもな詩僧をあげると、『東海華集(とうかいけいかしゅう)』の惟肖得巌(いしょうとくがん)、『続翠詩集(しょくすいししゅう)』の江西竜派(こうさいりゅうは)、『心田詩稿(しんでんしこう)』の心田清播(しんでんせいはん)、『漁庵小稿(ぎょあんしょうこう)』の南江宗沅(なんこうそうげん)、『狂雲集(きょううんしゅう)』『狂雲詩集』の一休宗純(いっきゅうそうじゅん)、『補庵京華集(ほあんけいかしゅう)』の横川景三(おうせんけいさん)、『梅花無尽蔵(ばいかむじんぞう)』の万里集九(ばんりしゅうく)、『翰林胡蘆集(かんりんころしゅう)』の景徐周麟(けいじょしゅうりん)、『幻雲稿(げんうんこう)』の月舟寿桂(げっしゅうじゅけい)らがいる。
横川景三は、古今の詩僧100人の詩を1首ずつ選んで『百人一首』(成立年未詳)を編んだ。100人の作者が選ばれるについては、その基底にある詩僧の層の厚さが思われ、また、詩壇の形成ということも想像される。同じころ「近代諸老の佳作」を20人から10首ずつ選んだ『花上集(かじょうしゅう)』(文挙契選(ぶんきょけいせん)編)が編まれている。これは彦龍周興(げんりゅうしゅうこう)の長享(ちょうきょう)3年(1489)の序をもつが、これら二つの詩の選集は、室町中期・15世紀後半の五山文学の様相をよく示している。すなわち、詩の隆盛、七言絶句の定着、宗教性の希薄化などである。
[中本 環]
室町末期になると、五山文学の世界は宗教性がますます希薄化して純文学化の傾向が強くなってくる。美人や佳人を詠み、あるいは男色を詠ずる作品・作者も多くなる。三益永因(さんえきえいいん)(?―1520?)の『三益艶詞(えんし)』(成立年未詳)のような情緒纏綿(てんめん)たる作品集さえ出現するに至る。求道的な緊張が作品のなかから薄れ、禅林文学独自の思想性もなくなってくる。これは文学の側からすれば純文学化の道をたどったようであるが、求道的精神の支えによって緊張を保ち独自の世界を形成していた禅林の詩文が、平凡な見解(けんげ)や低俗な情緒の反映としての詩文に転化したことを意味する。
平安朝漢詩文の衰退にかわって、大陸の禅宗とともに移入された五山禅林の文学は、室町幕府の崩壊とともに消滅した。江戸期の漢詩文は、五山の影響を脱却し、儒学思想を中核とするところから新生するのである。
[中本 環]
『山岸徳平校注『日本古典文学大系89 五山文学集・江戸漢詩集』(1966・岩波書店)』▽『玉村竹二著『五山文学』(1966・至文堂)』▽『蔭木英雄著『五山詩史の研究』(1977・笠間書院)』▽『中本環著「五山文学」(『日本文学全史3 中世』所収・1978・学燈社)』
日本において,13世紀後半より16世紀に至る300余年間,京都,鎌倉の五山禅林を中心として,禅僧の間に行われた漢文学。奈良朝の貴族間,江戸時代に儒者文人の間にそれぞれ行われたものと並んで,日本漢文学の三大隆盛期の一つをになうものである。
平安朝から引き続いて公家も作品を作ったが,中世の漢文学の主流をなしたのは五山文学である。五山僧の好んだ詩形としては七言詩,五言詩が多く,七言,五言ともに,絶句よりも律詩に関心が深い。七言絶句に関しては,道号の頌(じゆ)というものがある。道号を与えられた際,師匠先輩よりその意義を説いた頌を受けるが,これが七言絶句の形をとっている。文章では序,跋,記,銘,説などがあるが,最も注目すべきは,韻文と散文との中間に位する四六文(四六駢儷体(べんれいたい))すなわち駢文という第三の文体が,禅林において特に盛んに作成されたことである。この四六文は対句(ついく)のみでできていて,2句の対句と4句の対句がある。前者を短対(たんつい),後者を隔対(かくつい)といい,短対は軽快,隔対は重厚であり,重厚な隔対は重厚なるがゆえに2対つづけて用いず,必ずその間に軽快な単句を1対または2対挿入する。句末には脚韻を押韻する。句には長短があり,こういうところは韻文より散文に近く,しかも押韻するところは韻文そっくりであるので,駢文は散・韻両文の中間的な性格をもつ中国文のみに見られる第三の文体であり,対偶(ついぐう)の美を求めるのに急で,文意を暢達(ちようたつ)することを意図しない。特に禅林の四六文では,〈機縁の語〉というものがあり,表裏二つの意味をもっており,この機縁の語を遶(めぐ)って全文が表・裏両様の意味をもつ,いわば重義的文章をなすのである。この四六文は頂相(ちんそう)の讃や拈香(ねんこう),上堂などの法語に多く用いられるが,最も多く用いられるのは入寺疏(しよ)をはじめとする疏,榜の類においてである。入寺疏とは,禅僧が官寺(五山,十刹,諸山)に入寺するに際し,周囲の人がこれを賀し,あるいは駕を促すために製せられる文で,山門疏,諸山疏,江湖(ごうこ)疏,同門疏などの種類がある。
五山の禅僧は抒情の文学よりも構築の文学,理智の文学を好み,その極致である四六駢儷文にうつつをぬかしたが,聯句(れんく)の流行も対偶の美を求める点において,四六文愛好と同じ基盤より派生したものである。この時代に詩においては絶句より律詩が好まれたのも,その中間の2聯(頷聯,頸聯)4句が,2句ずつおのおの対偶をなしているからである。しかし五山禅僧も絶句を作らないではない。先に述べた道号頌などがそれである。概して仏教的内容をもち,禅宗内部の習慣にかかわるテーマについての詩は,これを偈頌(げじゆ)と称するが,形は俗の詩と同一である。
作者には,初期には一山一寧(いつさんいちねい),雪村友梅(せつそんゆうばい),虎関師錬(こかんしれん)らがおり,彼らは宋代の中国の禅林文学の影響をうけている。やがて元代に古林清茂(くりんせいむ)という僧が出て,金陵の保寧寺にあり,仏教者の文学があまりに俗に走るのに激して,文学活動を偈頌の範囲にとどめる運動を行った。その影響をうけたのが南北朝時代以後に活躍した竜山徳見,石室善玖,竺仙梵僊(じくせんぼんせん),義堂周信(ぎどうしゆうしん)らである。明代に入ると再び中国の禅林文学は俗化し,四六文が盛んになるが,その体格を定めたのが笑隠大訢であり,韻文も,偈頌よりも,再び俗体の詩に興味が移った。その影響下に出たのが中巌円月(ちゆうがんえんげつ),絶海中津(ぜつかいちゆうしん),如心中恕,一峰通玄,友山士偲らであった。北山時代には絶海の影響下に天章澄彧(ちよういく),惟肖得巌,太白真玄が出て,大いに晦渋(かいじゆう)な文章を競ったが,一方では義堂周信の影響を受けた惟忠通恕,心華元棣(げんてい),東漸健易,厳中周噩(しゆうがく)らが古林派下の偈頌主義をかろうじて守り,この流派が主流となって,瑞渓(ずいけい)周鳳によって高揚されたこの作風は東山時代に入り,横川景三(おうせんけいざん),景徐周麟,彦竜周興によって相続された。ことに彦竜は清冽な作風をもって五山文学を復興したが,惜しくも34歳の若さをもって夭折した。その後,天隠竜沢,月舟寿桂(げつしゆうじゆけい)らの作家が出たが,すでに五山僧の創作意欲は衰え,むしろ古典の攻究の方に関心が変わったので,作品も優れたものは少なくなった。江戸時代の儒者は,多く五山禅僧(藤原惺窩ら)または五山の雰囲気の中で育てられた人(林羅山ら)であったので,当初はそれらの人の作品は五山文学そのままの作風であったが,古文辞学派の台頭などによって,全く新風がおこり,五山僧の方がかえって,これに教えられる立場となり(たとえば梅荘顕常),五山文学の伝統は終息した。
→漢詩文
執筆者:玉村 竹二
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南北朝期~室町中期を最盛期とする京都五山の禅僧による漢文学。中世文化形成に重要な役割をはたした。鎌倉末期頃来朝した南宋の一山一寧(いっさんいちねい)が中国禅林の文学を好む気風を日本に伝え,禅宗の学芸興隆に大きな影響を与えた。その後禅林文学の純化をめざした元の古林清茂(くりんせいも)の弟子竺仙梵遷(じくせんぼんせん)の来朝,入元し古林に師事した竜山徳見・中巌円月(ちゅうがんえんげつ)らの帰朝により,日本でも新たな作風の漢詩文が誕生した。虎関師錬(こかんしれん)・雪村友梅(せっそんゆうばい)・義堂周信(ぎどうしゅうしん)・絶海中津(ぜっかいちゅうしん)などすぐれた作者が輩出し,創作のみならず,中国古典や宋・元文学の講究でも注目すべき足跡を残した。藤原惺窩(せいか)・林羅山ら五山出身の近世儒学者は,この伝統を引き継いだ。
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…当時,中国には笑隠大訢(しよういんたいきん)という禅僧が出て,禅四六の作法を一定し,これを〈蒲室疏法(ほしつそほう)〉と称したが,中巌円月,絶海中津はこの法を体得した。またこの時代には,清拙正澄(せいせつしようちよう),明極楚俊(みんきそしゆん),竺仙梵僊(じくせんぼんせん)など,中国僧の来朝があり,これらの人の作品は,正真正銘の“漢”文だったので,五山文学中とくに光彩を放った。その後義堂周信,絶海中津も和様に流れることきわめて少なかった。…
…また地方生活を送るなかで画業を完成させたものに雪舟がいる。 五山の僧侶の間にひろまった五山文学の世界では,景徐周麟,横川景三(おうせんけいざん)らが詩文で知られたが,この時期には詩文よりも経史に比重が移り,この分野では九州へ下り宋学を講じた桂庵玄樹の名が知られる。将軍家の保護を得た五山にかわり,林下の大徳寺が社会各層の帰依を得て隆盛に向かうのも,応仁・文明の乱前後からで,《狂雲集》を著した一休は,後世にも大きな影響を及ぼした。…
※「五山文学」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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