夢窓疎石(読み)むそうそせき

精選版 日本国語大辞典 「夢窓疎石」の意味・読み・例文・類語

むそう‐そせき ムサウ‥【夢窓疎石】

鎌倉末期・南北朝時代の臨済宗の僧。夢窓派(嵯峨門派)の祖。生前に与えられた夢窓・正覚・心宗のほか、普済・玄猷・仏統・大円の各国師号がある。宇多天皇の子孫と伝え、伊勢国(三重県)に生まれた。九歳で出家し、顕密を学んだが、のち禅に帰し、無隠円範、次いで一山一寧高峰顕日に師事し、高峰の法を継いだ。南禅寺に住し、さらに鎌倉の浄智寺・円覚寺に歴住し、甲斐国(山梨県)に恵林寺を、やがて京都に臨川寺を開いた。暦応二年(一三三九)足利尊氏が天龍寺を建てると、招かれて開山となった。五山文学の最盛期をその門流に生み出し、庭園芸術を発展させ、天龍寺船による貿易を促した。著書に「夢中問答集」「臨川寺家訓」。建治元~観応二年(一二七五‐一三五一

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デジタル大辞泉 「夢窓疎石」の意味・読み・例文・類語

むそう‐そせき〔ムサウ‐〕【夢窓疎石】

[1275~1351]南北朝時代の臨済宗の僧。伊勢の人。一山一寧・高峰顕日に師事。後醍醐天皇足利尊氏らの篤信を受け、京都嵯峨に天竜寺を開山。天竜寺船による貿易を促し、また造園芸術を発展させた。門派は夢窓派といい、五山文学の最盛期をつくった。著「夢中問答」「臨川寺家訓」「西山夜話」「夢窓国師語録」など。正覚国師。心宗国師。普済国師。夢窓国師。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「夢窓疎石」の意味・わかりやすい解説

夢窓疎石
むそうそせき
(1275―1351)

南北朝から室町初期の臨済(りんざい)宗の僧。夢窓派の祖。初名は智(ちかく)。伊勢(いせ)(三重県)の人で、4歳で甲斐(かい)(山梨県)に移住。宇多(うだ)源氏の出身という。初め平塩山寺の空阿(くうあ)のもとで密教を学び、18歳のとき東大寺戒壇(かいだん)院で具足戒を受ける。あるとき、中国の疎山(そざん)と石頭(せきとう)に遊ぶ夢をみて疎石と改名した。

 1294年(永仁2)建仁寺の無隠円範(むいんえんぱん)(1230―1307)に参じて禅に転じ、無及徳詮(むきゅうとくせん)、葦航道然(いこうどうねん)(1219―1302)、桃渓徳悟(とうけいとくご)(1240―1307)、痴鈍空性(ちどんくうしょう)、一山一寧(いっさんいちねい)らに歴参、1300年(正安2)下野(しもつけ)(栃木県)那須雲巌(なすうんがん)寺にとどまる。ついで鎌倉万寿(まんじゅ)寺の高峰顕日(こうほうけんにち)を訪ねて教えを受けたのち、陸奥(むつ)(青森県)、常陸(ひたち)(茨城県)に隠棲(いんせい)、ふたたび鎌倉に帰り浄智寺の高峰に所悟(しょご)を呈して印可(いんか)を受けた。ただし無学祖元(むがくそげん)の仏光(ぶっこう)派の諸師とはその後の折り合いが悪かったらしく、1313年(正和2)美濃(みの)(岐阜県)長瀬山(後の虎渓(こけい)山永保(えいほう)寺)に元翁本元(げんのうほんげん)(1282―1332)とともに隠れ、さらに山城(やましろ)(京都府)、土佐(高知県)に移住した。1319年(元応1)北条貞時(ほうじょうさだとき)夫人の請(しょう)により鎌倉の勝栄寺に寓居(ぐうきょ)、相模(さがみ)(神奈川県)三浦、上総(かずさ)(千葉県)に庵居(あんきょ)する。1325年(正中2)後醍醐(ごだいご)天皇の請により京都の南禅寺に入寺したが、翌1326年退き、伊勢(いせ)(三重県)の善応寺、鎌倉の瑞泉(ずいせん)院(寺)を開き、さらに円覚(えんがく)寺に入寺、1330年(元徳2)には甲斐恵林(えりん)寺を開いた。

 1333年(元弘3・正慶2)後醍醐天皇の請により上洛(じょうらく)して臨川(りんせん)寺に住したが、ここはのちに夢窓派の本拠となった。翌1334年、南禅寺に再住、さらに翌1335年には夢窓国師の号を特賜(とくし)された。このころより巧妙な政治的手腕を発揮して夢窓派を統率する。建武(けんむ)新政の挫折(ざせつ)後も足利尊氏(あしかがたかうじ)・直義(ただよし)の外護(げご)を受け、元弘(げんこう)以来の戦没者を弔うため尊氏・直義に勧めて全国に安国寺利生塔(あんこくじりしょうとう)を創設し、また後醍醐天皇の冥福(めいふく)を祈るために天竜寺の建立を図り、天竜寺船を出帆させてその造営の資を得るなど、その手腕を振るった。天竜寺はのちに五山第二位に列せられた。1345年(興国6・貞和1)光巌(こうごん)上皇・光明(こうみょう)天皇臨幸のもとに後醍醐天皇七周忌および天竜寺落慶仏事を行い、翌1346年退席、正覚(しょうがく)国師の号を賜った。1351年(正平6・観応2)天竜寺に再住、光巌上皇より心宗(しんしゅう)国師の号を賜る。同年、来朝僧東陵永璵(とうりょうえいよ)に後席を委嘱し、9月30日臨川寺三会(さんね)院において示寂。

 彼の禅風は純粋禅とは異なり、天台・真言(しんごん)を加味したものであったといわれる。門人は俗に1万3000人といわれるが、無極志玄(むごくしげん)(1282―1359)、春屋妙葩(しゅんおくみょうは)、竜湫周沢(りょうしゅうしゅうたく)(1308―1388)、義堂周信(ぎどうしゅうしん)、絶海中津(ぜっかいちゅうしん)ら多くの傑僧俊秀が輩出し、室町期の五山派のなかで政治的にも文芸面でも一大門派(夢窓派)を形成した。また山水を賞翫(しょうがん)し、西芳(さいほう)寺、天竜寺、瑞泉(ずいせん)寺、永保寺などの造園にも卓抜した才能を発揮し、後世の禅文化に大きな影響を与えた。没後も、普済(ふさい)、玄猷(げんゆう)、仏統、大円の国師号を賜り、俗に「七朝(しちちょう)の帝師」とよばれる。語録のほか、『夢中(むちゅう)問答集』『西山(せいざん)夜話』『谷響(こっきょう)集』『和歌集』などの著述がある。

[石川力山 2017年10月19日]

『川瀬一馬校注・訳『夢中問答集』(講談社文庫)』『玉村竹二著『夢窓国師――中世禅林主流の系譜』(1958・平楽寺書店)』『川瀬一馬著『夢窓国師――禅と庭園』(1968・講談社)』『柳田聖山著『日本の禅語録 7 夢窓』(1977・講談社)』


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改訂新版 世界大百科事典 「夢窓疎石」の意味・わかりやすい解説

夢窓疎石 (むそうそせき)
生没年:1275-1351(建治1-正平6・観応2)

鎌倉末期から室町初期にかけて活躍した臨済宗の僧。伊勢に生まれた。9歳のとき甲斐の平塩山寺に入って得度し,はじめ教学を学んだが,20歳にして京都建仁寺の無隠円範に接し,禅宗に帰依した。その後,桃渓徳悟,約翁徳倹,一山一寧らに参じたが契悟できず,ついで那須の雲巌寺,鎌倉の寿福寺で高峰顕日(けんにち)に従い,ついにその法を継いだ。夢窓は本来韜晦癖があり,美濃の虎渓庵,京都の北山,土佐の吸江庵,相模の泊船庵,上総の退耕庵などに隠棲庵居していたが,後醍醐天皇の強い屈請を受け,1325年(正中2)南禅寺に住した。翌年北条高時の招きで鎌倉の浄智寺,円覚寺に住し,その間に瑞泉寺や甲斐の恵林(えりん)寺を開いた。1333年(元弘3)鎌倉幕府滅亡直後,再び後醍醐天皇の招請により南禅寺に再住した。建武新政府の瓦解後は,足利尊氏・直義兄弟の厚い帰依を受け,南北争乱に戦死した武士の霊を慰めるため,全国に安国寺および利生塔の建立をすすめるとともに,後醍醐天皇の追善のための天竜寺(初め暦応(りやくおう)寺)造営にあたり,その開山第1祖となった。さらに北朝の光厳・光明両院の帰依も受け,南北朝の融合や,尊氏兄弟の不和の調停にも活躍した。その間,京都において臨川(りんせん)寺,真如寺,等持院,西芳寺など多くの禅院を開いた。夢窓が公武の間に多数の支持者を得たのは,彼の温和な性格にもよるが,それ以上に重要なことは,彼が純粋禅と教宗とを融合させた和風禅ともいうべき禅風を挙揚したからである。この点で,夢窓と並び称された宗峰妙超(しゆうほうみようちよう)から厳しい批判を受けたが,むしろ多くの人々は夢窓の思想を受け入れ,以後日本禅宗の主流的禅風となった。夢窓は門弟の養成にも才能があり,その数は1万人を超えたといわれる。無極志玄,春屋妙葩(しゆんおくみようは),義堂周信,絶海中津(ぜつかいちゆうしん),竜湫周沢(りゆうしゆうしゆうたく)などそうそうたる禅傑が輩出し,やがて天竜寺,相国(しようこく)寺を中心に五山禅林を制覇する大門派に発展するのである。

 夢窓はまた禅風文化の振興にも功があり,西芳寺,天竜寺の禅的庭園を造り,和歌に長じ,漢詩文にも巧みであった。室町期における五山文学の隆盛は,彼に負うところが大きい。1351年(正平6・観応2)示寂。後醍醐天皇をはじめ7人の天皇から,夢窓正覚心宗普済玄猷(げんゆう)仏統大円国師と勅諡(ちよくし)され,〈七朝の帝師〉と称された。著作には語録《夢窓録》のほか,仮名法語の《夢中問答集》《谷響集》《西山夜話》などがある。
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百科事典マイペディア 「夢窓疎石」の意味・わかりやすい解説

夢窓疎石【むそうそせき】

鎌倉末〜室町初期の臨済僧。伊勢(いせ)の人。鎌倉の各寺で参禅し,一山一寧(いっさんいちねい)・高峰顕日(こうほうけんにち)に師事。初め後醍醐(ごだいご)天皇の帰依(きえ)を受け,のち足利尊氏の信任を得た。天竜(てんりゅう)寺を開創し,天竜寺船による宋との貿易を促し,安国寺・利生塔の造立に功が大きかった。その門(嵯峨門派,夢窓派)には春屋妙葩(しゅんおくみょうは)らの俊秀が多く,五山文学の最盛期をつくった。また造園にすぐれた。著書《夢中問答集》。
→関連項目永保寺恵林寺義堂周信西芳寺相国寺絶海中津禅宗美術天竜寺等持院臨川寺鹿苑寺

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「夢窓疎石」の意味・わかりやすい解説

夢窓疎石
むそうそせき

[生]建治1(1275).伊勢
[没]正平6=観応2(1351).9.30. 京都
南北朝時代の臨済宗の僧。9歳のとき甲斐平塩寺の空阿の弟子となって密教を学び,18歳で得度し,奈良,東大寺戒壇院で慈観について登壇受戒した。 20歳で上京,建仁寺の無隠円範に参じて禅に帰し,のちに中国より一山一寧が来日したとき,鎌倉に下って学んだが機縁は契 (かな) わなかった。その後奥州を遊歴し,甲斐や美濃に草庵を営んだのち,土佐国五台山に吸江庵を結んだ。正中2 (1325) 年後醍醐天皇の勅により南禅寺の住持となるが,北条氏に請われて鎌倉に入り,北条氏滅亡後上京して再び南禅寺に入った。京都騒乱後に足利尊氏の帰依を受け,天竜寺の開祖となった。足利氏は末代にいたるまで疎石の門徒に帰依することを約束し,室町時代を通じて夢窓派が隆盛することとなった。多くの弟子を教化し,義堂周信絶海中津らを出した。主著『夢窓語録』 (2巻) ,『夢中問答集』。庭園設計,詩偈 (しげ) ,和歌にもすぐれた。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「夢窓疎石」の解説

夢窓疎石
むそうそせき

1275~1351.9.30

鎌倉後期~南北朝期の臨済宗の僧。道号は夢窓,法諱は疎石,国師号は心宗国師。別に木訥叟(ぼくとつそう)と称す。伊勢国生れ。1292年(正応5)天台宗の明真に師事するが,一字も説かずに死んだ明真をみて,ひそかに教外別伝の禅宗に傾く。翌年,京都建仁寺の無隠円範に参見し,法諱を疎石,道号を夢窓と自称。99年(正安元)来朝した一山一寧(いっさんいちねい)に師事した。1303年(嘉元元)高峰顕日(こうほうけんにち)に就学。25年(正中2)後醍醐天皇の命で南禅寺に,29年(元徳元)北条高時に請われて円覚寺に入寺。36年(建武3・延元元)には足利尊氏が弟子の礼をとった。春屋妙葩(しゅんおくみょうは)以下の俊秀を養成して臨済宗の黄金期を築く。後醍醐天皇没後に建立された天竜寺の開山となる。その造園技術による京都西芳寺(苔寺)・天竜寺などの庭園(国特別史跡・国特別名勝)も有名。著書「夢中問答集」。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「夢窓疎石」の解説

夢窓疎石 むそう-そせき

1275-1351 鎌倉-南北朝時代の僧。
建治(けんじ)元年生まれ。臨済(りんざい)宗。無隠円範,一山(いっさん)一寧にまなび,高峰顕日の法をつぐ。京都南禅寺,鎌倉円覚寺の住持,甲斐(かい)恵林(えりん)寺,京都臨川寺,天竜寺などの開山(かいさん)。後醍醐(ごだいご)天皇,足利尊氏らの帰依(きえ)をうけ,夢窓派を一大門流とした。観応(かんのう)2=正平(しょうへい)6年9月30日死去。77歳。伊勢(いせ)(三重県)出身。諡号(しごう)は夢窓国師,正覚国師など。著作に「夢中問答集」など。
【格言など】人は長生きせんと思わば虚言をいうべからず

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旺文社日本史事典 三訂版 「夢窓疎石」の解説

夢窓疎石
むそうそせき

1275〜1351
鎌倉末期・南北朝時代の臨済宗の僧
伊勢(三重県)の人。初め天台・真言を修学したが,のち禅宗に転じ,後醍醐 (ごだいご) 天皇・足利尊氏らの篤信をうけた。甲斐恵林 (えりん) 寺・京都天竜寺などを開き,春屋妙葩 (しゆんおくみようは) をはじめすぐれた僧を多数養成し,臨済禅最盛のもとを開いた。また天竜寺・西芳寺・瑞泉寺(鎌倉)などの造園にすぐれた技術を残し,『夢中問答』ほか著書も多い。

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世界大百科事典(旧版)内の夢窓疎石の言及

【永保寺】より

…虎渓の称は景致が中国廬山の虎渓に似ていることによる。1313年(正和2),土岐氏の招きをうけた夢窓疎石が長瀬山の幽境に庵居しこの禅寺を開創したが,17年(文保1)夢窓は同門の元翁本元(仏徳禅師)に寺の後事を託して上京し,35年(建武2)夢窓が臨川寺(京都)開山となったとき,永保寺開山は元翁本元に改められた。元翁の寂年は1331年(元弘1)で,開山となった時はすでに遷化していたが,元翁の塔所である南禅寺正的庵末寺の五山派寺院として展開した。…

【恵林寺】より

…山号は乾徳山。1330年(元徳2)甲斐牧ノ庄の領主二階堂貞藤が,夢窓疎石を開山に招いて創建した。夢窓は隠遁を好む傾向があり,当地に隠棲したのである。…

【西芳寺】より

…寺伝では,奈良時代に僧行基が畿内に建立した49院の一つで,これを当寺の草創とする。鎌倉時代に中原師員が浄土宗の寺として再興整備し,室町初期の1339年(延元4∥暦応2)幕府の有力武将摂津親秀が夢窓疎石を招いて禅苑として中興した。疎石はこのとき寺名を西方寺から現在の西芳寺と改め,ついで寺内の僧侶の行持を厳制し,住持は夢窓門派のみをあてることを定めて,当寺を夢窓門派の修道のための寺院とした。…

【瑞泉寺】より

…山号は錦屛(きんぺい)山。開山は夢窓疎石,開基は二階堂道蘊,中興開基は足利基氏で1327年(嘉暦2)開創。本尊は地蔵菩薩。…

【天竜寺】より

…京都五山の一つ。1339年(延元4∥暦応2)足利尊氏が夢窓疎石のすすめによって,吉野で亡くなった後醍醐天皇の冥福を祈るため,北朝の光厳上皇の院宣を得て建立に着手したのが起源である。尊氏は多くの荘園を,北朝は売官による成功(じようごう)の収益を,それに室町幕府は天竜寺船を元に派遣してその貿易利益を当寺に寄せ,造営費用にあてた。…

【天竜寺船】より

…当時は造天竜寺宋船とよばれた。1339年(延元4∥暦応2)8月に没した後醍醐天皇の菩提をとむらうため,足利尊氏は天竜寺の造営を企て,同天皇に伝領されていた嵯峨野の離宮亀山殿(かめやまどの)を禅院に改め,夢窓疎石を開山とし,寺領として元弘恩賞地日向国国富荘を寄進した。造営には巨額の費用が必要なため,幕府内において宋船派遣が論議され,その是非をめぐって紛糾したが,疎石の懇願によって派遣が決定した。…

【夢中問答集】より

夢窓疎石述の法話集。《夢中問答》ともいう。…

【臨済宗】より

…鎌倉の寿福寺を中心とする栄西,京都東福寺を中心に聖一(しよういち)派という大門派を形成した弁円らは,ともに若くして天台教学を修めていたから,彼らの請来した臨済禅は,顕密禅三教融合の習合禅とでもいうべきものであったが,鎌倉中期以降,宋より渡来した蘭渓道隆無学祖元らの宋僧は,鎌倉の建長寺,円覚寺を本拠に,本場の純粋禅を挙揚(こよう)し,執権北条氏をはじめ,鎌倉上級武将の帰依を受けた。南北朝期以降,五山・十刹の制度が確立していくが(五山・十刹・諸山),和風の習合禅も夢窓疎石(むそうそせき)らによって隆盛におもむき,足利将軍家や守護大名らの保護のもとに,夢窓門派は五山叢林を制覇し,室町時代の臨済宗の主流を占めた。北山文化,東山文化で代表される室町文化は,五山文学と呼ばれる漢詩文や朱子学のほか,水墨画,庭園,能,茶の湯など多彩な要素を含んでいるが,それらはすべて禅味の強い文化であり,五山禅僧の文化創造活動によるところが大きかった。…

【臨川寺】より

…寺地は亀山天皇の離宮亀山殿のうちの川端御所の跡地に当たる。1335年(建武2)後醍醐天皇が皇子世良親王の菩提を弔うため,開山に夢窓疎石を招いて勅願寺として開創。夢窓はのちに当寺を退隠所として入滅し,いまも本堂内の開山堂にその像を安置し,下に,遺骸を葬った石龕(せきがん)がある。…

※「夢窓疎石」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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