窪田庄(読み)くぼたのしよう

日本歴史地名大系 「窪田庄」の解説

窪田庄
くぼたのしよう

文禄検地帳(徳川林政史蔵)に「窪田之郷山田井・野崎」と「窪田之郷野田村」と題する二冊があり、地形上から後世大里おおざと(現大里山室町から大里窪田町にわたる一帯)の地域と推定される。文治三年(一一八七)三月三〇日付公卿勅使伊勢国駅家雑事勤否散状に「不勤仕庄」の一つとしてみえ、地頭は大江広元であった(「吾妻鏡」同年四月二九日条)。しかし「神鳳鈔」には「本御贄窪田御厨三石、六九十二月(中略)迄此御贄上分承久注進定」とある。承久の乱(一二二一)に際し、広元の子親広が後鳥羽院方についたため処分されていることから、地頭職はこの時に没収され、伊勢神宮へ寄進されたと思われる。

嘉元三年(一三〇五)四月と推定される摂渡庄目録(九条家文書)に東北院領の一つとして「頼隆知行之窪田庄 免田卅町 年貢六丈絹三百疋」とみえ、摂関家の管轄する京都法成ほうじよう寺東北院が本家冷泉頼隆は預所と考えられる。


窪田庄
くぼたのしよう

簡要類聚鈔(京都大学蔵一乗院文書)の「十二ケ所御領」のうちに「窪田」とあり、鎌倉中期に興福寺一乗院領荘園であった。応永三四年(一四二七)の一乗院昭円講師反銭納帳(天理図書館保井文庫)

<資料は省略されています>

とあり、本庄池田いけだ庄の両庄に分れていた。本庄の所在は、大乗院領西窪田庄との関係でいえば現大字窪田の東部地域であろう。池田庄は本庄の北部、現大字東安堵小字池田辺りであろう。

応永二七年の一乗院坊人用銭・給分支配状(天理図書館保井文庫)

<資料は省略されています>

とある。


窪田庄
くぼたのしよう

飽田あきた郡北部にあった九条家領の荘園。所在地・規模・成立経過・内部構造など一切不明。一般には現北部ほくぶ釜尾かまお付近に比定される。建長二年(一二五〇)一一月日の九条道家惣処分状(九条家文書)に、一条摂政(実経)への譲与分中の「新御領」の一つで「肥後国窪田庄准后御領」とある。准后は一条能保の女婿西園寺公経の娘で、道家の妻の藤原倫子であり、当庄は倫子が嫁資として実家から持ち来たった所領であったかと思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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