日本歴史地名大系 「窪田村」の解説
窪田村
くぼたむら
松山平野の南平坦部に位置する農村。東は
古代には、久米郡
窪田村
くぼたむら
窪田村
くぼたむら
- 山形県:米沢市
- 窪田村
窪田村
くぼたむら
窪田村
くぼたむら
窪田村
くぼたむら
長崎街道に沿う街村で、戦国時代には久保田宿があった。
「太宰管内志」の佐嘉郡に「下田村」があり、「下田は久保多と訓ムべし(中略)名義は
平安時代末、この地の統治者として窪田因幡守藤原利常・窪田太郎高直の名前が伝えられるが定かではない(久保田町史)。文治二年(一一八六)の後白河院庁下文(河上神社文書)に「海宿禰重実所領、為窪田
窪田村
くぼたむら
窪田村
くぼたむら
窪田村
くぼたむら
窪田村
くぼたむら
- 兵庫県:加西市
- 窪田村
窪田村
くぼたむら
大和川北岸、奈良盆地標高最低の湿地帯に立地。上窪田・中窪田・下窪田・北窪田・
文禄四年(一五九五)の検地奉行は矢羽伝兵衛。慶長郷帳の村高六六四・一六石、のち六六四・一六四石。慶長六年(一六〇一)竜田藩(片桐且元)領、寛永一六年(一六三九)村高のうち五二七・六石は有馬左衛門佐内儀領、ほかは幕府領となる。有馬左衛門佐内儀とは徳川家康の養女(本多忠政の女)で、慶長一五年有馬直純(左衛門)に配する時、美濃国で粉粧料一千一〇〇石の知行を得たが、のちこれを大和国に移された。
窪田村
くぼたむら
窪田村
くぼたむら
窪田村
くぼたむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報