日本大百科全書(ニッポニカ) 「立木義浩」の意味・わかりやすい解説
立木義浩
たつきよしひろ
(1937― )
写真家。徳島県に生まれる。生家は1883年(明治16)に開業した立木写真館で、義浩は3代目の父真六郎(しんろくろう)(1899―1971)と母香都子(かつこ)(1915―86)の次男。母は70歳で亡くなるまで現役で写真館の仕事を続け、明るくてハイカラな半生はNHKの朝の連続テレビ小説「なっちゃんの写真館」(1980)のモデルとなり、話題となった。父の長兄は朝日新聞社の成澤玲川(なるさわれいせん)(1877―1962)で、『アサヒカメラ』誌や『アサヒグラフ』誌を創刊し、全日本写真連盟の立ち上げにも力をそそいだ。いわば写真の名門に生まれ、1956年(昭和31)東京写真短期大学(現東京工芸大学)に進んだ立木は、学生時代に、まだ開設されて間もなかった東京・銀座の富士フォトサロンで企画された立木家の写真展「一家みんなの写真館」に両親や立木写真館を継いだ兄利治(1934―93)、写真家となった弟三朗(1944― )らとともに出品している。
立木は細江英公(えいこう)の紹介でアート・ディレクター堀内誠一(1932―87)を知り、58年同大学を卒業すると同時に、堀内が設立メンバーとなるアドセンターに入社する。堀内は雑誌『an an』『Popeye』『クロワッサン』『Brutus』などの仕事も手がけ、絵本作家でもあったが、この自由な気風の会社で新進気鋭のデザイナーや写真家たちとの交友を広げた立木は、またたく間にコマーシャルからファッション、ヌードやエディトリアル写真まで撮る、売れっ子の写真家になっていった。その合間には大学の1年先輩の柳沢信らと、写真展「アドリブ・スリー」を企画するなどしている。そして65年4月号の『カメラ毎日』誌に、代表作「舌出し天使」を56ページにわたって掲載。このページ数も画期的であったが、なんといっても軽妙な独特の感性が話題となった。この年には同誌に「Just Friends」を連載し、これらの作品によって、日本写真批評家協会新人賞を受賞している。69年にはアドセンターを辞してフリーランスとなり、さらに幅広い分野にわたって仕事をするようになる。
70年には写真展「GIRL」「イヴたち」を全国各地で開催。観客動員でも注目され、それぞれ同名の写真集にもなっている。『私生活・加賀まり子』(1971)など、女優やヌードを撮ることが多かったが、80年に出版された『マイ・アメリカ』のころから、スタイルに縛られず、何ものにも捉われない姿勢で撮影対象や表現方法の幅を広げていく。『家族の肖像』(1990)、『平成の福助』(1992)、『細雪(ささめゆき)の女たち』、伊丹十三との共著『大病人の大現場』(ともに1993)、『花気色』(1995)など多様な写真を手がけ、『サンデー毎日』の連載をまとめた有名人親子の写真集『親と子の情景』(1996)で、97年度の日本写真協会年度賞を受賞している。その後『東寺』(1998)を出版、故郷で阿波(あわ)踊りを撮ったり、阪神・淡路大震災からの復興に向かう神戸の人々を撮影し、写真展「KOBE・ひと」を神戸で開催(2001)するなど一所に留まることのない仕事を続けている。
[大島 洋]
『『イヴたち』(1970・サンケイ新聞社)』▽『『GIRL』(1971・中央公論社)』▽『『私生活・加賀まり子』(1971・毎日新聞社)』▽『『マイ・アメリカ』(1980・集英社)』▽『『家族の肖像』(1990・文芸春秋)』▽『『平成の福助』(1992・マガジンハウス)』▽『『細雪の女たち』(1993・新潮社)』▽『『ナチュラル・ウーマン』(1994・KKベストセラーズ)』▽『『花気色』(1995・集英社)』▽『『親と子の情景』(1996・毎日新聞社)』▽『『親と子の情景2』(1998・毎日新聞社)』▽『『東寺』(1998・集英社)』▽『『世界ウィスキー紀行』(2000・同文書院)』▽『伊丹十三・立木義浩著『大病人の大現場』(1993・集英社)』▽『加藤哲郎著『昭和の写真家』(1990・集英社)』▽『松本徳彦著『写真家のコンタクト探検』(1996・平凡社)』