立石浦(読み)たていしうら

日本歴史地名大系 「立石浦」の解説

立石浦
たていしうら

[現在地名]敦賀市立石・明神みようじん

西にし浦一〇ヵ浦の一。浦底うらそこ浦の北、敦賀町から海上五里、敦賀半島先端立石岬の岩石海岸に山を背にする。古墳や古代製塩跡がある。地名は天正二年(一五七四)五月二〇日付羽柴秀吉書状(立石区有文書)みえ、同三年八月八日付不破光治書状(同文書)には「楯石」と記す。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図には、無高の村であったため記されず、正保郷帳には「田畠無之」とある。

天保一四年(一八四三)八月の沓・縄間・名子三ケ浦手繰網猟ニ付立石浦願書写(立石区有文書)に「立石浦之義ハ、古来より御案内被為在候通り、諸作ハ勿論草木迚も生立不申、漁一色之以助力を、諸御役相勤メ渡世仕来候ヘハ、外浦とハ格外之浦柄ニ御座候」とみえ、無高の純漁村の様子を記している。実際には元禄三年(一六九〇)立岩谷たていわだにより田畑の開発に取掛り、宝永二年(一七〇五)代官の見分をうけ、冥加米一石を上納していた。その後も開発が進み、冥加分も増え享保一六年(一七三一)以後五石(銀納)の定額となった(「高割帳」立石刀根家文書)。明治四年(一八七一)の立石浦冥加田所反別帳(同文書)は「下田弐町三反八畝三歩、盛七斗、分米拾六石六斗六升七合、免三ツ、此納米五石 冥加上納也」と、従前追認をしているが、地租改正後の明治一四年の立石浦地誌取調帳(立石区有文書)では「一、田十一町八反五畝二十三歩 一、畑五反九畝二十一歩 一、米七十三石五斗六升二合」と面積・石高ともに飛躍的に増加している。


立石浦
たていしうら

[現在地名]丸亀市広島町立石ひろしまちようたていし

広島の南東部に位置し、西は江之えの浦、東は海に面する。島中船方領の一浦で、地名は海中に立つ巨石に由来するという。永正一四年(一五一七)四月一五日の阿弥陀堂落慶供養願文(道隆寺文書)に「立石島阿弥陀院」とみえる。宝永年間(一七〇四―一一)の集落規模は長さ一二〇間・幅六〇間(塩飽島諸事覚)。天正一八年(一五九〇)の当浦斗代による算定検地高は三五石余、うち田一二石余・畑二三石余、慶長一一年(一六〇六)の検地高は四一石余(同年田畑打出し所次第「島中集旧記書」塩飽勤番所顕彰保存会蔵)。宝永元年の島中納方配分之覚(前掲諸事覚)によれば高二七石余、うち庄屋給分引三石、古加子一一人分引一一石、新加子五人分引五石、残高八石六斗余が中納。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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