立間村(読み)たちまむら

日本歴史地名大系 「立間村」の解説

立間村
たちまむら

[現在地名]吉田町立間

北は東西に連なる法花津ほけづ山脈を境に現東宇和郡宇和町に接し、南は立間尻たちまじり浦および吉田陣屋よしだじんや町、西は石城せきじよう山を挟んで喜佐方きさがた村、東は十本松じつぽんまつ峠を越えて現三間みま町に接する。幾条かに分れた谷あいの村である。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の宇和郡の項には「立間村 柴山有、茅山有」と村名がみえる。吉田藩領に属した。

和名抄」に記載された宇和郡の一郷名「立間」が地名の初見である。また小鹿島文書の寛喜三年(一二三一)の条には「宇和庄内小立間」の名がみえる。この小立間こたちま境域は不明であるが、立間郷内の中心的地域をよんだのであろうか。この時、同所の重貞しげさだ名の地頭に橘公業の子乙王丸が補せられた。そののち建治四年(一二七八)に立間郷の地頭藤原重貞(吉田古記)の名が、元徳二年(一三三〇)に西園寺氏の家臣で立間郷を所領とした開田善覚(歯長寺縁起)などの名がみえる。

立間村
たつまむら

[現在地名]両津市立間

北は赤玉あかだま村、南は尾戸おど村の葛倉くずくら、西は現新穂にいぼ村の奥山。立間川の谷間家屋が散在する。字かきうちと、それと隣接する主要耕地字大坪おおつぼの大部分を草分孫左衛門家が所有していた。宝暦(一七五一―六四)頃の「佐州巡村記」では、田三町余・畑五町余、戸口は一六軒・七七人。天保九年(一八三八)の皆済目録(立間区有)には小物成に山役・烏賊役一千枚・干鱈役五〇枚・船歩銀船七艘分・油絞役などがある。同年の書上帳(橘鶴堂文庫蔵)では、竹林一ヵ所・茶畑一三歩があり、戸口は一七軒・九五人のうちに木挽・桶屋が各一いる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報