日本大百科全書(ニッポニカ) 「竹内保徳」の意味・わかりやすい解説
竹内保徳
たけのうちやすのり
(1810―1867)
江戸時代末期の幕臣。下野守(しもつけのかみ)、通称清太郎。1854年(安政1)箱館奉行(はこだてぶぎょう)。61年(文久1)勘定奉行兼外国奉行となり、同年12月、遣欧使節正使に任じられ、三十余名を伴いイギリス軍艦で横浜を出港。攘夷(じょうい)運動の激化にかんがみ、両都(江戸・大坂)、両港(兵庫・新潟)の開市開港を所定期限より延期させる目的で欧州各国を訪問、五か年延期に成功し、まず62年5月、イギリスとの間にロンドン覚書として協定されたのをはじめ、プロシア、ロシア、フランス、ポルトガルとの間に、それぞれ同じ協定を結んだ。63年フランス船で帰朝したが、幕府が攘夷主義の朝廷を宥和(ゆうわ)しようと努めていたおりで登用されず、翌年勘定奉行を辞任。大坂町奉行に補されたが着任せず、退隠した。なお、竹内保徳の生年については「1806年」「1807年」など諸説あるが、ここでは東京都新宿区の養国寺にある墓碑の文化7年(1810年)をとった。
[田中時彦]