竹森村(読み)たけのもりむら

日本歴史地名大系 「竹森村」の解説

竹森村
たけのもりむら

[現在地名]高畠町竹森

高畑たかはた村の西にあり、竹森山(二八一・五メートル)の南西麓に主集落がある。ここが村の南端屋代やしろ川が流れ、二井宿にいじゆく街道が通る。集落はほかに山越やまこし細越ほそごえ日向ひなた大笹生おおざそう野手倉のてぐらと丘陵裾沿いに北方点在時沢ときざわ村に続く。日向に国指定史跡の日向洞窟遺跡があり、竹森山に鎮座する白髭しらひげ神社に弘安六年(一二八三)銘の板碑がある。「伊達正統世次考」や伊達・蘆名両家関係覚書(伊達家文書)などによると、明応三年(一四九四)頃には当地竹森城に伊達尚宗、高畠城にはその子稙宗が居城していたが、両者間で内紛があり、それに乗じた蘆名盛高は家臣松本対馬に竹森城を攻めさせ、対馬はこれを落したという。天文二二年(一五五三)の晴宗公采地下賜録によると、「や代竹のもり、中村四郎兵へかいち、にしの本在け」が中村源三に、「や代北かたの内」の「竹のもり在家」が原田藤左衛門に、「はら田源三ふん、大さそふ在家」が堀内蔵人に与えられている。

近世初期の邑鑑に村名がみえ、高一千六六九石余、免一ツ八分、家数三五(うち役家五、肝煎・小走三)・人数一一八。


竹森村
たけもりむら

[現在地名]塩山市竹森

千野ちの村の北、おも川に注ぐ竹森川の下流域に展開する村で、西はおうぎ(恵林寺山)を峯境として藤木ふじき村。応安三年(一三七〇)一〇月二〇日には「高橋庄竹森郷」のたま(現玉諸神社)で大般若経の書写が行われた(野尻倹之助氏蔵「大般若経」奥書)。「塩山向嶽禅菴小年代記」によれば、永和四年(一三七八)三月上旬抜隊得勝は武蔵から甲斐に移り竹森に庵を結んだとある。「塩山抜隊和尚語録」では「高森」と記され、当地に三年住したのちの一月二〇日塩山(向嶽寺)を開いて移ったという。永正一二年(一五一五)五月一六日の雨宮某寄進状写(「向嶽寺什書目録」向嶽寺文書)では竹森のうち宮畠一枚六升蒔の地が、大永七年(一五二七)三月吉日の村山勝久寄進状(同文書)では「竹森岩下ひかしまた三斗まき」の地が各々向嶽寺に寄進されている。


竹森村
たけもりむら

[現在地名]東城町竹森

粟田あわた村の西に位置する。鉄井谷かないだに川をはじめ村内の谷水を集めながら、村域西部を南流する小奴可おぬか川は、北部では塩原しおはら村、南部ではすげ村との境界となる。集落は小奴可川沿いの狭い平地と村内各所につくられた溜池から流れる川の下流耕地周辺に散在する。古く鉄穴流しによって開かれた村と考えられる。

元和五年(一六一九)の備後国知行帳では三四六石余であるが、正保三年(一六四六)の地詰帳(「国郡志下調書出帳」所収)では畝数四五町六反余・高三九九石余になっており、ほかに新開五町八反余の高九石余を加えると畝数五一町四反余で高四〇八石余となり、以降、内訳の変更はあっても総高の変更はなかった。


竹森村
たけもりむら

[現在地名]寺泊町竹森

北は中曾根新なかぞねしん村、南は万善寺ばんぜんじ村、西は下曾根新村、東は小豆曾根あずきぞね村。島崎しまざき川の沖積平地にある独立小丘陵周辺に発達した集落。現在この小丘陵は二つに分れており、北の小丘陵には、竹森の北半分ととう新田および小豆曾根があり、南の小丘陵には竹森の南半分がある。ただし、南の小丘陵は、かつては鰐口わにぐち村のある三島みしま丘陵先端部と続いていたものを、工場団地とするため平坦にしたためである。北の小丘陵の字城の山じようのやまに城館跡と須恵器・土師器の出土する遺物包含地が五ヵ所あり、南の小丘陵に第一次越後国府想定地として論議の的となった横滝山よこたきやま廃寺跡・古墳がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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