抜隊は至徳四年二月二〇日没(前掲行実)。没後向嶽庵は門下の俊英たちによる輪番住持となった。二世通方明道は抜隊の語録の整理・編纂を行い、問答・垂示・遺誡・行録を草した。これが至徳四年成立の「塩山抜隊和尚語録」である。このとき上梓した至徳三年一一月一五日刊記の「抜隊遺誡」「塩山和泥合水集」の版木は当寺に現存している(ともに国指定重要文化財)。三世峻翁令山(法光円融禅師)は五度にわたって住持となり、その間
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山梨県甲州市にある寺。山号は塩山。臨済宗向嶽寺派の本山である。開山は法灯(ほつとう)派の抜隊(ばつすい)得勝(1327-87)で,1380年(天授6・康暦2)武田信成が創建した向嶽庵に始まり,85年(元中2・至徳2)後亀山天皇の勅願所となる。1547年(天文16)後奈良天皇の勅願寺となり,庵号を向嶽寺と改称し,武田信玄も保護に尽力した。武田氏滅亡のあと,83年(天正11)徳川家康から朱印地36石余の寄進を受け保護されたが,1782年(天明2)火災で諸堂宇を失った。87年の末寺帳によると,朱印地37石余,塔頭(たつちゆう)35宇,末寺50ヵ寺,孫末寺35ヵ寺を数えた。1890年向嶽寺派として独立し,現在末寺60ヵ寺余を有する。《蘭渓道隆賛達磨図》(国宝)を所蔵。
執筆者:竹貫 元勝
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山梨県甲州市塩山(えんざん)上於曽(かみおぞ)にある臨済(りんざい)宗向嶽寺派の大本山。塩山と号し、詳しくは向嶽元中禅寺(げんちゅうぜんじ)という。1380年(天授6・康暦2)武田信成(のぶなり)が抜隊得勝(ばっすいとくしょう)を開山として建立、向嶽庵(あん)と称したのに始まる。1385年(元中2・至徳2)後亀山(ごかめやま)天皇の勅願所となる。法燈(ほうとう)派の法を嗣(つ)いだ抜隊を慕って全国から1000余人の雲水が向嶽寺に集まったといわれる。1547年(天文16)後奈良(ごなら)天皇の詔(みことのり)を賜り、向嶽寺と改められ、出世道場とされた。武田晴信(信玄)も中興を図り、最盛時には41院、末寺700か寺があったと伝えられる。武田氏の滅亡後は徳川家の保護を受けたが、1786年(天明6)の大火で伽藍(がらん)を失い、中門だけが残った。現在の諸堂はその後の再建で、寺内に専門道場をもつ。絹本著色達磨図(だるまず)(国宝)、頂像(ちんぞう)などの寺宝がある。
[菅沼 晃]
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…中世の甲斐は文化の面でも鎌倉と関係が深く,著名な禅僧が入国したり,日蓮が身延山を開いたりした。臨済宗は13世紀の後半,二度にわたって甲斐に流された鎌倉建長寺開山宋僧蘭渓道隆(らんけいどうりゆう)によって基礎が築かれたが,1330年(元徳2)夢窓疎石が笛吹川上流牧荘に恵林寺(塩山市)を,その半世紀後抜隊得勝(ばつすいとくしよう)が塩山のふもとに向嶽寺(同)を建て,ますます繁栄におもむいた。また日蓮は,1274年(文永11)甲斐源氏の一族波木井実長の招きを受けて身延の地に久遠寺(くおんじ)を建てた。…
※「向嶽寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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[1973~ ]プロ野球選手。愛知の生まれ。本名、鈴木一朗。平成3年(1991)オリックスに入団。平成6年(1994)、当時のプロ野球新記録となる1シーズン210安打を放ち首位打者となる。平成13年(...
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