竹田町
たけだまち
二本松城下六町の一つで、亀谷町の北、郭内の東に続く。慶安二年(一六四九)以降、旧郭内にあった塗屋町が移されて成立した。当町の検断を勤めた矢島家の家譜(二本松市史)に「慶長年間移住二本松塗屋坊(中略)丹羽玉峯公従白河就封二本松当竹田街発命為竹田町検断」とある。矢島氏は蘆名氏の臣金上遠江守盛備の子孫と称しているので、慶長六年(一六〇一)以降に蒲生氏を頼って二本松に移ったと思われる。なお塗屋町は名称からみて蒲生氏が開いた町の可能性が高い。延宝三年(一六七五)の他邦見世場之覚(簗田家文書)に二本松古手見世場の証拠人として「塗屋町孫惣」の名が記されている。
竹田町
たけだまち
[現在地名]姫路市竹田町
姫路城東の外曲輪に位置する町人町。堺町の北に続く中堀沿いの南北の町筋で、中央を生野街道(但馬街道)が通る。但馬国竹田城下(現和田山町)の町人が移住した地ではないかという(大正八年刊「姫路市史」)。慶長六年(一六〇一)の町割以前に町場化が進んでいたと推測される。寛永元年(一六二四)姫路城の西に材木町ができるまで当町と堺町・生野町・橋之町・龍野町に材木屋が拡散していたという(→堺町)。
竹田町
たけだまち
[現在地名]金沢市長土塀三丁目
南西側を油車町、東および北東側を浄住寺前で囲まれた竹田掃部請地と小堀左内相対請地一帯で、明治二年(一八六九)町立てされた。西は大豆田村。竹田氏は人持組で三千五三〇石、長町に屋敷をもち(安政三年侍帳)、当地は下屋敷地。延宝町絵図に「竹田五郎左衛門下屋舗」とある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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