笹沢魯羊(読み)ササザワ ロヨウ

20世紀日本人名事典 「笹沢魯羊」の解説

笹沢 魯羊
ササザワ ロヨウ

大正・昭和期の郷土史家 大畑町長。



生年
明治18(1885)年1月8日

没年
昭和47(1972)年2月13日

出生地
青森県三戸郡八戸町(現・八戸市)

本名
善八

別名
幼名=虎之助

学歴〔年〕
正則英語学校夜間部卒

主な受賞名〔年〕
東奥賞(第15回)〔昭和37年〕,青森県文化賞〔昭和44年〕

経歴
明治36年八戸尋常小学校を中退して上京し、内閣統計局に勤めながら正則英語学校夜間部に学ぶ。同校卒業後の41年に郷里八戸の「奥南新報」記者となったのを皮切りに「陸奥日報」「西北新報」「弘前新聞」など青森県内の地方紙で活躍。これと同時に青森県下北地方の郷土史に興味を持ち、44年「八戸便覧」、45年「八戸町地誌」を発行した。大正9年県議河野栄蔵の招きで田名部(現・むつ市)に移住して「下北新報」を発行し、その発行人兼編集長として下北地方の政治・経済・教育・郷土史などに関する論評執筆。その傍ら同地方を跋渉して資料の収集や研究を行い、10年に下北初の地方史「下北郡地方誌」をまとめ、さらに昭和9年の「大畑町誌」以降、田名部町・大湊町・東通村川内町・佐井村・風間浦村といった同地方の各町村誌の編纂刊行に携わった。また14年以降は地方政界でも活動し、大畑町助役を経て16年大畑町長に就任したが、戦後の21年に公職追放を受けて辞職以後は研究活動に専念し27年「下北半島史」を、28年には民俗学的な「宇曽利百話」を発表。公職追放解除後の29年には政界に復帰し、大畑町助役を務めた。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「笹沢魯羊」の解説

笹沢 魯羊
ササザワ ロヨウ


肩書
大畑町長

本名
笹沢 善八

別名
幼名=虎之助

生年月日
明治18年1月8日

出生地
青森県三戸郡八戸町(現・八戸市)

学歴
正則英語学校夜間部卒

経歴
明治36年八戸尋常小学校を中退して上京し、内閣統計局に勤めながら正則英語学校夜間部に学ぶ。同校卒業後の41年に郷里八戸の「奥南新報」記者となったのを皮切りに「陸奥日報」「西北新報」「弘前新聞」など青森県内の地方紙で活躍。これと同時に青森県下北地方の郷土史に興味を持ち、44年「八戸便覧」、45年「八戸町地誌」を発行した。大正9年県議河野栄蔵の招きで田名部(現・むつ市)に移住して「下北新報」を発行し、その発行人兼編集長として下北地方の政治・経済・教育・郷土史などに関する論評を執筆。その傍ら同地方を跋渉して資料の収集や研究を行い、10年に下北初の地方史「下北郡地方誌」をまとめ、さらに昭和9年の「大畑町誌」以降、田名部町・大湊町・東通村・川内町・佐井村・風間浦村といった同地方の各町村誌の編纂・刊行に携わった。また14年以降は地方政界でも活動し、大畑町助役を経て16年大畑町長に就任したが、戦後の21年に公職追放を受けて辞職。以後は研究活動に専念し27年「下北半島史」を、28年には民俗学的な「宇曽利百話」を発表。公職追放解除後の29年には政界に復帰し、大畑町助役を務めた。

受賞
東奥賞(第15回)〔昭和37年〕 青森県文化賞〔昭和44年〕

没年月日
昭和47年2月13日

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「笹沢魯羊」の解説

笹沢魯羊 ささざわ-ろよう

1885-1972 大正-昭和時代の郷土史家。
明治18年1月8日生まれ。青森県内の新聞記者をつとめたのち,大正9年田名部(むつ市)で「下北新報」を発行。下北地方の郷土史を研究し,多数の町村誌を執筆した。昭和16年大畑町長。戦後は「宇曾利百話」「下北半島史」などをあらわした。昭和47年2月13日死去。87歳。青森県出身。正則英語学校卒。本名は善八。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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