朝日日本歴史人物事典 「篠原長房」の解説
篠原長房
生年:生年不詳
戦国時代の武将。孫四郎,右京進,入道して岫雲斎恕朴と号す。先祖は近江野洲郡篠原郷(滋賀県野洲町)の国人と伝え,多賀某の被官であったが阿波へ没落して三好氏に仕えたという。長房は阿波麻植郡上桜城(徳島県川島町)城主として三好義賢に仕え,永禄1(1558)年9月には三好長慶・義賢に従って畿内に出陣,嵯峨清涼寺に禁制を掲げている。同5年3月和泉久米田の戦で義賢が討死すると帰国して入道した。長慶の死後,三人衆と松永久秀が対立すると,三人衆側の有力武将として活躍,同9年6月には足利義栄を擁して兵庫に上陸,7月には松永方の摂津越水城を落とし,さらに翌月同中嶋城を下した。義栄の室町幕府将軍任官は長房の活躍によるところが大きい。キリシタンに理解を示し,フロイスの入京を斡旋した。入京した織田信長に抵抗したが,元亀1(1570)年11月講和。なお義賢の没後は三好長治に仕え,分国法『新加制式』22カ条を制定した。その後不和となった長治や十河存保に攻撃され,上桜城で戦死。<参考文献>若松和三郎『篠原長房』,同「新加制式考」(『ふるさと阿波』96~106号)
(今谷明)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報