篠原長房(読み)しのはら・ながふさ

朝日日本歴史人物事典 「篠原長房」の解説

篠原長房

没年:天正1.7.16(1573.8.13)
生年:生年不詳
戦国時代の武将。孫四郎,右京進,入道して岫雲斎恕朴と号す。先祖は近江野洲郡篠原郷(滋賀県野洲町)の国人と伝え,多賀某の被官であったが阿波へ没落して三好氏に仕えたという。長房は阿波麻植郡上桜城(徳島県川島町)城主として三好義賢に仕え,永禄1(1558)年9月には三好長慶・義賢に従って畿内に出陣,嵯峨清涼寺に禁制を掲げている。同5年3月和泉久米田の戦で義賢が討死すると帰国して入道した。長慶の死後,三人衆と松永久秀が対立すると,三人衆側の有力武将として活躍,同9年6月には足利義栄を擁して兵庫に上陸,7月には松永方の摂津越水城を落とし,さらに翌月同中嶋城を下した。義栄の室町幕府将軍任官は長房の活躍によるところが大きい。キリシタンに理解を示し,フロイスの入京を斡旋した。入京した織田信長に抵抗したが,元亀1(1570)年11月講和。なお義賢の没後三好長治に仕え,分国法『新加制式』22カ条を制定した。その後不和となった長治や十河存保に攻撃され,上桜城で戦死。<参考文献>若松和三郎『篠原長房』,同「新加制式考」(『ふるさと阿波』96~106号)

(今谷明)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「篠原長房」の意味・わかりやすい解説

篠原長房 (しのはらながふさ)
生没年:?-1573(天正1)

戦国時代の武将。官途は右京進,右京亮,また岫雲(しゆううん)と号す。先祖を橘氏と称し,阿波麻植郡の土豪で,はじめ三好義賢(実休)の被官であったが,1562年(永禄5)義賢の戦死後は嗣子長治を補佐して阿波,讃岐,淡路3ヵ国を治め,河内飯盛城の三好長慶からは松永久秀とともに内者と呼ばれていた。その分国法《新加制式》は彼の制定にかかる。義賢や足利義栄に従い畿内にも転戦し,三好三人衆に次ぐ地位にあったが,1573年5月,主家の細川真之,三好長治に攻められ敗死。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「篠原長房」の解説

篠原長房 しのはら-ながふさ

?-1572 戦国-織豊時代の武将。
阿波(あわ)(徳島県)麻植(おえ)郡上桜城主。三好義賢(よしかた)につかえ,義賢の死後,三好三人衆をたすけ足利義栄(よしひで)を将軍職につかせる。義賢の子長治(ながはる)のもとで分国法「新加制式」を制定。一族篠原自遁(じとん)の讒言(ざんげん)により長治らにせめられ,元亀(げんき)3年7月16日討たれた。通称は孫四郎,右京進。号は岫雲(しゅううん),紫雲。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の篠原長房の言及

【新加制式】より

…条数22ヵ条。制定者は,三好氏の家宰篠原長房(岫雲)とされ,制定年代は,1562年(永禄5)3月より以降約10年のあいだに比定されている。法典としての形式は,神社・仏寺の規定を首条におくという中世の法典の形式を踏襲しているが,その条文配列など必ずしも整然としたかたちをとっていない。…

※「篠原長房」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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