室町幕府14代将軍。号光徳院。初名義親。義維(よしつな)の長子として阿波平島に出生。平島公方,富田公方ともいう。1565年(永禄8)三好三人衆,松永久秀らは将軍義輝のかいらい化に失敗して義輝を暗殺したが,そのとき将軍跡目として嗣立されたのが義栄である。その後三人衆と三好義継・松永久秀の間は確執を生じたが,三人衆筆頭の三好長逸(ながやす)の要請で66年淡路に移り,篠原長房に擁せられて摂津越水城(現,西宮市)に入った。同年12月,京都にほど近い摂津富田(現,高槻市)の普門寺に進出し,ここで朝廷より従五位下,左馬頭に叙爵され,義栄と改名。68年2月,将軍に任ぜられたが,義輝の弟,義昭も将軍跡目を称し,美濃岐阜城主織田信長に推戴されて京都に迫った。同年9月富田で病没。前後して義昭らも入京して幕府を再興した。このため義栄の将軍在位はわずか7ヵ月にすぎなかった。
執筆者:今谷 明
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
室町幕府第14代将軍。阿波(あわ)(徳島県)平島(ひらしま)で出生。堺公方(さかいくぼう)足利義維(よしつな)の子。義晴(よしはる)の甥(おい)にあたる。初名義親(よしちか)。父義維は就位しなかったが、将軍跡目として1527~1532年の間、堺公方と称され、和泉(いずみ)(大阪府)堺に幕府を開いた。義栄は1565年(永禄8)将軍義輝(よしてる)暗殺ののち三好(みよし)三人衆によって将軍跡目にたてられ、摂津越水(こしみず)城に入るが、松永氏と三人衆の内訌(ないこう)のため入京できず、1568年ようやく摂津富田(とんだ)で将軍に任官した。しかし同年9月の織田信長の入京により三人衆政権は瓦解(がかい)し、自身も病死。
[今谷 明]
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
(今谷明)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
1538~68.9.30
室町幕府の14代将軍(1568.2.8~68.9.30)。12代義晴の弟義維(よしつな)の長子。母は大内義興の女。初名義親。法名光徳院玉山。従五位下左馬頭。阿波国平島荘(現,徳島県阿南市)で誕生。三好長慶の支持がえられず,一時大内氏を頼って周防に移る。63年(永禄6)阿波に帰還。65年,松永久秀らによる将軍足利義輝殺害後三好三人衆に擁され,翌年摂津国富田(とんだ)に入るが,久秀と三人衆の対立で入京できなかった。67年,将軍宣下(せんげ)を請うが許されず,翌年2月に宣下。同年9月に織田信長に奉じられた義昭が上洛,義栄は対戦を前に病没。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新