室町末期の武将。出生地はなぞに包まれ,阿波,山城西岡など諸説あるが,摂津五百住の土豪の出とする《陰徳太平記》の説が比較的信をおける。初め藤原氏を称し,1561年(永禄4)より源氏を称す。33-34年(天文2-3)ころ,京畿の争乱の中で台頭した三好長慶(ながよし)に右筆として仕え,42年には早くも一方の部将として南山城に進駐している。実弟の長頼が軍事指揮に優れ,山城,丹波の軍事と民政を任されたのに対して,久秀は訴訟取次ぎなど文書事務に秀で,49年の長慶入京以降は幕下にあって行政実務に専念した。しかし所司代に就任したとか,実権が長慶をしのいだなどの俗説には根拠がなく,伊勢貞孝,蜷川親俊ら幕府から長慶に帰参した吏僚の作成した裁許案を長慶に取り次ぐ事務担当の域を出ていないのが真相である。53年に長慶の畿内制覇がほぼ成ると,摂津滝山城(現,神戸市)の城主に任ぜられ,西摂,播磨方面の軍政を担当したが,彼自身は在京して訴訟事務をつかさどった。59年(永禄2)大和信貴山城主に移り大和平定作戦に従事,翌年全大和を統一し62年奈良多聞山に築城,数百年にわたる興福寺の大和支配を終焉させた。
64年長慶が没すると三好三人衆とともに後嗣義継の後見となり,65年将軍足利義輝を暗殺,名実ともに三人衆政権が畿内に君臨することになった。しかし同年弟長頼が丹波に敗死し,主導権を争う三人衆と久秀の反目も激化し,この両者の争いで67年東大寺大仏殿が炎上した。68年9月美濃から入洛した織田信長に降伏し,大和一国の支配を安堵されたが,71年(元亀2)5月ひそかに武田晴信に通じて信長にそむき,73年(天正1)3月には将軍義昭とも同盟した。しかし同年7月幕府は崩壊し,11月には三好義継も河内若江城に敗死して,久秀は再び信長に帰服している。77年8月再度信貴山城に拠って信長に抗し,大坂の本願寺や毛利氏と呼応したが,織田軍の猛攻の前に同年10月陥落,久秀自身は愛器〈平蜘蛛〉の茶釜を抱いて自殺した。当時有数の大都市奈良を支配し,堺の豪商とも通じて財富を蓄積し,茶道にも通じた文化人であったが,術策を振るい,キリシタン宣教師からは狡猾(こうかつ)と評されている。
執筆者:今谷 明
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(今谷明)
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戦国時代の武将。山城(やましろ)国あるいは摂津国に生まれた。三好長慶(みよしながよし)の家臣で、初め右筆(ゆうひつ)として仕えた。1553年(天文22)摂津滝山(たきやま)城(神戸市中央区葺合(ふきあい)町)主を命ぜられ、八部(やたべ)・菟原(うはら)郡を支配。59年(永禄2)大和(やまと)平定のため大和信貴山(しぎさん)城(奈良県生駒(いこま)郡平群(へぐり)町)主となる。翌60年弾正少弼(だんじょうしょうひつ)、幕府御供衆(おともしゅう)に列せられる。同年8月郡山(こおりやま)城(奈良県大和郡山市)を攻落したのを皮切りに、大和の諸城を次々に陥落させ、62年奈良北部に天守閣をもつ多聞山(たもんやま)城(奈良市法蓮(ほうれん)町)を造営し大和を支配した。64年長慶が死去すると、一族の三好長逸(ながゆき)・政康(まさやす)、岩成友通(いわなりともみち)のいわゆる三好三人衆とともに長慶の養子義継(よしつぐ)を補佐、65年将軍足利義輝(あしかがよしてる)を三好三人衆らと暗殺し、義輝の実弟一乗院覚慶(後の将軍義昭(よしあき))を奈良に幽閉した。長慶の政権を継いだのは、三好義継と三好三人衆および久秀の三者の連合体であり、久秀が1人実権を握ったのではない。久秀は大和一国の戦国期権力であった。しかし、この連合も三好三人衆との内訌(ないこう)で分裂していく。66年久秀は、和泉(いずみ)・河内(かわち)・摂津の各地で三好三人衆に敗れ、67年大和に逃げ帰り、同年10月には東大寺に布陣した三好三人衆を攻撃して大仏殿を焼き払った。翌68年入京した織田信長の軍門に降(くだ)って大和一国を安堵(あんど)されるが、77年(天正5)8月信長に背き、信貴山城を攻められ、10月、子久通(ひさみち)とともに自殺した。
[矢田俊文]
『今谷明著『言継卿記』(1980・そしえて)』
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1510~77.10.10
戦国期の武将。大和国信貴山(しぎさん)城(現,奈良県平群町)・多聞山(たもんやま)城(現,奈良市)の城主。三好長慶(ながよし)の家臣となり,1559年(永禄2)以後大和を領国とし,多聞山城に拠った。64年長慶が死ぬと三好三人衆とともに実権を握り,翌年三好政権と対立する将軍足利義輝を暗殺。しかし三人衆と不和となり抗争を続けるうち,67年には東大寺大仏殿を焼失させた。68年織田信長が入京するとこれに従ったが,71年(元亀2)武田信玄に通じて離反。73年(天正元)降伏し,多聞山城から信貴山城に移った。77年再び反信長の兵をあげたが失敗,信貴山城で自殺。
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…南北朝時代からここにたびたび砦が築かれ,楠木正成も一時拠ったと伝えられる。永禄年間(1558‐70)に松永久秀は信貴山城を本拠にして畿内に覇を唱えた。織田信忠軍の攻撃を受けて落城した城郭跡は,山頂から尾根,山腹にかけて壮大な遺構をとどめている。…
…しかし長政は41年河内太平寺の一戦に敗死し,当城も焼けおちた。ついで59年(永禄2)松永久秀が大和に入国,多聞山(たもんやま)城(現,奈良市)とともに当城に本拠をおいて,大和,河内の制圧を目ざし,当城を大規模な山城に構築した。久秀は68年織田信長に下ったものの,77年(天正5)当城に拠って信長に反し,織田信忠らの攻撃をうけ10月10日落城,久秀父子は自刃した。…
…奈良市北部,佐保丘陵の南東隅にあった中世末期の平山城。京街道を眼下に見下ろす要地にあり,1560年(永禄3)前年から大和に入った松永久秀が,西の信貴山城とならんで構築に着手した。65年には多数の塔(櫓か)や塁保(多聞か),多くの階を重ねた家屋が建ちならび,城壁と塁保は白壁,御殿内部は彫刻,壁画,金地で飾られた豪華なものであったことなどが,当城を訪れた宣教師ルイス・アルメイダの書簡で知られる。…
…なお,地域的分裂に乗じて曹洞宗や一向宗が吉野郡にはじまって南大和に流布する。 やがて16世紀半ばには,筒井氏は古市,十市,越智氏の衰退に乗じて独走勢力となったが,おりから細川氏の家老三好長慶が台頭,その家臣の堺代官松永久秀が大和をねらって信貴山(しぎさん)城を築き,1559年(永禄2)久秀は大和守護職を称して乱入,幼児の筒井藤勝(順慶)ら国衆を追って奈良に進出し,翌年にはその北郊に多聞山城を築いて居城とした。近世城郭の第1号といわれる雄壮な構築であり,4階だての多聞櫓がそびえた。…
※「松永久秀」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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