日本歴史地名大系 「粟津保」の解説 粟津保あわづほ 石川県:小松市旧能美郡地区粟津村粟津保現在の粟津町・津波倉(つばくら)町・林(はやし)町・下粟津町辺りに比定される中世の保。上保、下保(下粟津)からなる。津波倉神社蔵の元亨二年(一三二二)八月日の獅子頭銘に「八幡宮 粟津上保 右衛尉景久施入」とあり、当時すでに上保・下保から構成されていた。施入者の右衛尉景久は加賀斎藤系林氏の庶流で、能美郡の加賀国府周辺に土着し、「景」を名前の通字とした板津氏の一族であろう。「源平盛衰記」巻四(白山神輿登山事)に安元三年(一一七七)二月一〇日上洛途上の白山神輿が「仏が原、金剣宮」を出て「あはづ」へ着いたとあるが、延慶本「平家物語」ではこれを「椎津」とする。応永一六年(一四〇九)将軍足利義持が足利家廟所の等持(とうじ)院(現京都市中京区)に父義満の仏事料所として「栗津上・下保半分」を寄進(同年九月四日「足利義持御判御教書」等持院文書)、管領奉書が加賀守護斯波満種に発給され(同年九月一〇日「管領斯波義淳奉書」同文書)、守護施行状が守護代に下された(同年九月一二日「加賀守護斯波満種施行状」同文書)。等持院は足利尊氏によって創建され、当初足利直義の創建になる三条坊門の等持寺(直義失脚後尊氏が再興)の別院であったともいわれ、両方合せて「等持寺院」とも称された。康正二年(一四五六)の「造内裏段銭并国役引付」に「拾四貫文 等持寺領。賀州粟津上下保段銭」とあり、また「鹿苑日録」長享元年(一四八七)九月五日条に「寺院兼領加賀国粟津保」あるいは「等持寺・院兼帯所領加賀国粟津保」とある(同年閏一一月八日条)。寛正三年(一四六二)粟津保の百姓能円の公事未進(あるいは押領)事件があったらしく、それに関係したとしてその親類で京都東福寺領江沼(えぬま)郡熊坂(くまさか)庄(現加賀市)の百姓長左衛門の子が咎人とされたため、寺領に迷惑が及んだことを東福寺が幕府に訴えている(同年三月日「東福寺雑掌言上状」東福寺文書)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報