粟津村(読み)あわづむら

日本歴史地名大系 「粟津村」の解説

粟津村
あわづむら

[現在地名]珠洲市三崎町粟津みさきまちあわづ

森腰もりこし村の北にあり、浜沿いに内浦街道が通る。粟津川が東流し、下大屋しもおおや井田いだ白潟しらかたの垣内がある。長禄三年(一四五九)六月の長十郎信連寄進状(琴江院文書)に「珠々郡方上保淡津村琴江院」とあり、二〇〇刈が琴江きんこう院に寄進されているが、この史料は研究の余地がある。古くから粟津であったが、元和六年(一六二〇)の検地の際に肝煎南治左衛門が家名を村名に書違えたことから帳面にみなみ村と記され(能登志徴)、元禄一五年(一七〇二)とみられる村名改覚(改作所旧記)によれば同年まで南村が公的な村名であったという。


粟津村
あわづむら

[現在地名]小松市粟津町

平地と山地の境界部にあり、南東は山地となり、東は井口いのくち村、北は津波倉つばくら村。中世以来の粟津保の遺称地。正保郷帳では高二〇五石余、田方七町九反余・畑方四町一反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高二一〇石、免四ツ、小物成は湯役一二九匁・山役一〇〇匁(三箇国高物成帳)。貞享四年(一六八七)新規に捨馬禁止の高札が掲げられた(改作所旧記)。寛政四年(一七九二)の家数二二(うち本百姓一四・頭振八)、人数男四八・女五五、一〇年はえ柴六〇〇束切を一口として六四口の持山があった(小松市史)


粟津村
あわづむら

[現在地名]相馬市粟津

北東流する宇多うだ川北岸の台地に位置し、対岸今田いまだ村・中野なかの村、北は西山にしやま村・小野おの村。天文七年(一五三八)の段銭古帳に宇多庄のうちとして「あわつ」とみえ、段銭一貫五〇文とある。正保郷帳では田方七〇石余・畑方三〇石余。明暦二年(一六五六)の高一二二石余(相馬藩政史)元禄郷帳によると高一二二石余。なお、元禄検地高は二〇七石余(奥相志)。天明三年(一七八三)の家数はなし、嘉永元年(一八四八)の家数五(検地石高収納戸口等調)。文久元年(一八六一)の家数八・人数四六、馬八。安政三年(一八五六)字粟津の宇多川河川敷に火薬製造所が建てられ、同七年には火薬庫が設けられている(以上「奥相志」)


粟津村
あわづむら

[現在地名]出雲市平野町ひらのちよう

高浜たかはま川左岸にあり、東は里方さとがた村、西は堀江ほりえ村。明徳三年(一三九二)八月一七日の前信濃守貞季立券状(小野文書)に「粟津村内一本松」とみえる。明応一〇年(一五〇一)二月一二日の某氏慶応譲状(鰐淵寺文書)に「神門郡朝山之郷粟津村、当社八幡宮神主職」とある。天文九年(一五四〇)三月二八日の片寄久盛寄進状(同文書)では粟津村の田地一反が日御崎社(日御碕神社)に寄進されている。慶長年間(一五九六―一六一五)堀江村を分村したという。正保国絵図に村名がみえる。慶安二年(一六四九)の粟津村御検地帳では屋敷数一〇八(うち引方九)とある。


粟津村
あわづむら

[現在地名]加古川市加古川町粟津かこがわちようあわづ

寺家じけ町の南に位置する。北側を東西に山陽道が通る。永正一二年(一五一五)八月日の鶴林寺寺料田惣目録(鶴林寺文書)には承仕散田のうち二反一〇代を粟津定阿弥分と記される。天文三年(一五三四)八月日の鶴林寺寺料田惣目録(同文書)中の所務帳には、買地に粟津村尾江孫左衛門、同追筆部分に北粟津の作人新左衛門がみえる。正中三年(一三二六)に修理を行った鶴林かくりん寺太子堂(法華堂)の木部銘には同堂の二和尚に粟津の伊岡慶円がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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