糸屋町
いとやちよう
[現在地名]東区車道町五丁目
車道筋の中程、建中寺前の南方にあたる往還町から石神堂筋の間の町。古井村(現千種区・東区)の内で、高牟神社(古井八幡)を氏神とした。名古屋新田に属する見取所としての畑二反四畝余があった。町名の起源は当時、西側に糸屋某の住居があったためといわれ、初めは国方支配であったが、享保一三年(一七二八)町方支配に変わった(府城志、蓬州旧勝録、吏事随筆)。
糸屋町
いとやちよう
上京区和泉町中立売上ル
南北に大宮通(旧大宮大路)が通る。
寛永一四年(一六三七)洛中絵図には「いとや丁」、承応二年(一六五三)新改洛陽並洛外之図には「袋丁」、寛文後期洛中洛外之絵図には「北堀ノ上町」、天保二年(一八三一)改正京町絵図細見大成には「いとや丁」と記される。「坊目誌」は聚楽第東北の外堀の跡地にできた町で、文禄の文書に糸屋町と出るという。
糸屋町
いとやちよう
下京区仏光寺通室町西入
東西に通る仏光寺通(旧五条坊門小路)を挟む両側町。
平安京の条坊では左京五条三坊一保七町南側及び同二保六町北側。平安中期以降は五条坊門町尻小路東の地。
寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「糸屋丁」とあり、既に現町名が使われる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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